原爆と平和教育
戸田清(長崎大学環境科学部)
2006年4月5日 2008年11月10日改訂
長崎出身の学生に聞くと、小学校、中学校、高等学校の平和学習はマンネリ化していて、同じような話を何度も聞いたという。それでいて、「広島はウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆」ということは大学生になって初めて聞いたという。被爆体験の継承は被爆地の平和学習の出発点であることは間違いないが、あとどのように展開すればいいのだろうか。「広島はウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆」などは本質的に重要な論点と思えるのだが、考えること、行動することに結びつく平和学習、しかし大量の資料で消化不良にならないですむ平和学習はどのように組み立てればいいのだろうか。私は長崎に来て11年になるが、その間の見聞をふまえた私見を述べてみたい。被爆体験を出発点として、たとえば少なくとも次のような論点は伝えるべきだと思う。
@ドイツ降伏以前に対日使用を密約
1945年5月ドイツ降伏、7月原爆完成、8月広島・長崎原爆投下という経緯を見れば、ふつうは「ドイツが降伏したから日本に」と思うだろう。米国の原爆開発の動機がヒトラーの原爆保有への懸念であったという説明がふつうなされるはずだから、そう思うのは無理がない。
しかしよく知られるように、ローズヴェルト大統領とチャーチル首相のハイドパーク覚書(1944年9月)で対日投下の密約がなされていた(進藤,2002:133;斉藤,2004:60)。対日使用の密約から直ちに人種主義(ドイツ人は欧州人、日本人はアジア人)が主因であるとの速断はできないが、人種主義が要因のひとつであったことは推察できる。すでに1943年5月の米英軍事政策委員会で、日本を投下目標とする意見が多数を占めていた(進藤,1999:167)。日本はドイツほどの科学先進国ではないので、投下されてもすぐに原爆製造のノウハウを解明して報復してくることはないだろうというのが主な理由だった。なお、第二次大戦中に日系米国人の強制収容はあったが(米国政府は戦後に謝罪)、ドイツ系、イタリア系米国人の強制収容はなかった。
もしローズヴェルトが生きていたら、広島・長崎のような事態にはならず、「無人島を破壊して威力を示す」といった方策がとられた可能性もある(進藤,1999:71)。リベラル(ローズヴェルト)と保守(チャーチル、トルーマン)の違いは小さくない。チャーチルにはクルド人、アラブ人への化学兵器使用の前科があることも想起すべきであろう。トルーマンの原爆投下命令はおそらく口頭であった(荒井,2008:162)。
また1945年3月にチャーチルはイーデン外相宛の書簡で、原爆の秘密をソ連はもちろんのこと、フランスなどにも隠すようにと指示している(進藤,2002:134)。
次のような歴史の流れはおさえておいたほうがいいだろう。
1938−39年 ドイツのハーン、シュトラスマン、マイトナーがウランの核分裂の発見(世界中の科学者が知る)
1939年 ドイツに先駆けて原爆を開発することを促すアインシュタインのローズヴェルト宛て書簡(8月)
1940−41年 米国のシーボーグらがプルトニウムの核分裂の発見(第二次大戦中なので国家機密となる)
1942年 原爆開発のマンハッタン計画始動(8月)、シカゴ大学の原子炉で核分裂連鎖反応実験に成功(12月)。
1944年 対日使用の米英密約
1945年 4月ローズヴェルト死去、5月ドイツ降伏、7月原爆完成(アラモゴード核実験)、8月原爆投下
A広島はウラン原爆、長崎はプルトニウム原爆
マンハッタン計画ではウラン濃縮によってつくるウラン原爆と、原子炉からプルトニウムを取り出してつくるプルトニウム原爆の開発が平行してすすめられ、前者が広島に、後者が長崎に投下され、戦後の世界の核開発ではプルトニウム原爆が主流になったことは、基礎知識としてあったほうがよいのではないか。広島、長崎の二回投下をした理由のひとつがタイプの異なる原爆の効果比較(建築物への効果、人体への効果など)であったことは否定できない。2つのタイプの原爆があるということを理解しておかないと、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮、イランなどの核開発・核疑惑問題のニュースも理解できないのではないだろうか。原子炉がもともとプルトニウム抽出のために使われ、原子力潜水艦、原子力発電へと応用されたことは理解しておくべきではないだろうか。日本政府のプルトニウム大量利用路線(高速増殖炉[核兵器級プルトニウムを大量生産する]、軽水炉のプルサーマル運転、核燃料再処理工場の推進)が必要性、安全性、経済性のみならず、核拡散の観点からも問題になっていることも、「ウランとプルトニウム」に着目しないと理解しにくい(石田,2005;大庭,2005;伴,2006)。
長崎では玄海原発(佐賀県)の電気が消費されるので、ウランは日常生活とつながっている。もうひとつ日常生活とのつながりは煙草である。ウランは地球上に薄く広く分布している。ウラン鉱石にウランはわずか0.1%しか含まれていないが、リン鉱石に0.01%という多量のウランが含まれることがある。リン酸肥料を大量消費するタバコにもウランが入る。ウランは微量なので問題にならないが、ウランの崩壊産物であるポロニウム210が喫煙による肺癌、喉頭癌の原因の一部となっている(戸田,2003)。アルファ線を出す核種であるポロニウム210は半減期が短いので、同じ質量で単純比較すると「プルトニウムよりも危険」ということになってしまう。核兵器や劣化ウラン兵器や原発に反対しているのに喫煙する人を見かけるが、論理的に整合しないであろう。
原爆投下の目的について、戦争終結促進説、ソ連抑止説、人体実験説などがある。戦争終結促進説が米国政府の公式見解であることは言うまでもない。大統領が対ソ協調派のローズヴェルトから対ソ強硬派のトルーマンに代わったこと、米ソ冷戦の予兆は戦争終結前からあったことなどから、ソ連抑止は重要な動機である。広島と長崎で異なるタイプの原爆の効果を比較したことは、人体実験が動機のひとつであったことを示唆する。日教組の平和学習指導書のようにソ連抑止が主な動機であったという説明(舟越ほか,2001:61)は納得できない。ソ連抑止と人体実験がともに重要な動機であったと見るべきであろう(木村,2005;木村,2006)。
B広島・長崎に先立ってアフリカのウラン鉱山などで大量被曝
アインシュタインは1939年8月のローズヴェルト宛て書簡(レオ・シラードが起草した)で「合衆国は貧弱なウラン鉱しかなく、必要量を得ることができそうにありません。カナダと旧チェコスロバキアには、いく分か良い鉱石があります。最も重要なウラン鉱は、ベルギー領コンゴです。」と述べている(斉藤,2004:110)。マンハッタン計画のウランは、主にベルギー領コンゴとカナダに由来する(エンゲルス,2008:27)。コンゴのウラン鉱山では1940年代からベルギーの会社によってウラン採掘が行われ、コンゴ独立の1960年に閉山となったが、1990年代の内戦で監視の目が緩み、違法採掘が盛んになった(望月,2005)。 カナダでは、先住民が多大な被曝をした。また、米国アリゾナ州のレッドロック鉱山でも1942年にウラン採掘が始まり、先住民ナバホの人々が多大な被曝を被った。閉山は1968年であった(舟越ほか,2001:154)。
ウラン鉱山は言うまでもなく原爆と原発の共通の出発点である(戸田,2003)。さらに、ウラン鉱山での被曝は原発や再処理工場よりずっと多い(小出,1995:154)。長崎平和推進協会が被爆の語り部に政治的発言の自粛を求め、政治的問題として、自衛隊イラク派遣、憲法改正、太平洋戦争での天皇の戦争責任、有事法制、原子力発電、靖国問題などがあげられ、話題になった(無署名,2006)。原爆と原発はウラン鉱山を介してつながっているのだから、片方にしか触れてはいけないというのは恣意的であろう。
C対ソ原爆外交
前述のように原爆投下の重要な目的のひとつであったことは、伝えるべきであろう。英国の物理学者ブラケットの「原爆投下は、第二次大戦の最後の軍事行動であったというよりは、むしろ目下進行しつつあるロシア(ソ連)との冷たい戦争の最初の軍事行動のひとつであった」という発言は有名である(舟越ほか,2001:61)。
D原爆の米英独占の意図
前述のように原爆の秘密を米英が独占(英米同盟)しようとしたことは、英国覇権の衰退と米国覇権の興隆を象徴するできごとであり、国際政治を理解するうえで重要であろう。
E戦後の米占領下の原爆報道規制
戦後の米占領下の原爆報道規制(いわゆるプレスコード)についてもやはり伝えておくべきであろう。米国政府は被爆の実相を知られたくなかったのである(ブラウ,1988)。
F東京裁判で核・生物・化学兵器が裁かれなかったこと
知られるように、第二次大戦では「大量破壊兵器」の代表であるABC兵器(NBC兵器)、すなわち核兵器・生物兵器・化学兵器がすべて使われた。核兵器を使ったのは米国であり、・生物兵器・化学兵器を使ったのは日本である。東京裁判(極東国際軍事裁判)は確かに「勝者の裁き」という一面を持ち、戦勝国である米国の戦争犯罪は裁かれなかった。生物兵器が裁かれなかったのは石井四郎元軍医中将(元731部隊指揮官)が米国政府と取引したためである。化学兵器がいったん起訴状に記載されながら取り上げられなかった理由は不明であるが、国際世論が化学兵器のみならず原爆にも注目することを恐れた米国政府の意向などが推測されている(辰巳,1993:125)。
東京裁判でABC兵器が裁かれなかったことはその後に禍根を残した。核兵器が裁かれないのなら、劣化ウラン兵器が裁かれるはずがない。国際司法裁判所が核兵器の使用を一般的に違法と勧告したのは、戦後50年(1995年)の翌年のことであった。
枢軸国の戦争犯罪と連合国の戦争犯罪の連関にも目を向けるべきであろう。ドイツ軍のゲルニカ、日本軍の重慶などの無差別爆撃の延長に原爆投下があった(前田,1997)。
少なくとも以上の7点は平和学習で伝えてほしいと思う。社会人、大学生はもちろん高校生でも、以上7点のすべてを平易な形で伝えることはできるだろう。小学生、中学生にどこまで伝えていくかは今後の検討課題である。ちなみに日教組の指導書(舟越ほか,2001)では、BCはある程度伝えているが、その他の項目への言及はなかった。
文献
秋吉美也子,2006,『横から見た原爆投下作戦』元就出版社。
荒井信一,2008,『空爆の歴史 終わらない大量虐殺』岩波新書。
石田謙二,2005,「ひと往来 核燃料再処理中止を訴える反核・平和活動家 田窪雅文さん」『長崎新聞』4月20日。
エンゲルス、メアリー=ルイーズ,2008(原著2005),中川慶子訳『反核シスター ロザリー・バーテルの軌跡』緑風出版。
大庭里美,2005,『核拡散と原発』南方新社。
木村朗,2005,「原爆投下問題への共通認識を求めて」『季刊軍縮地球市民』創刊号。
木村朗,2006,『危機の時代の平和学』法律文化社。
小出裕章,1995,「解説 無視され続けたウラン鉱山の危険」榎本益美『人形峠ウラン公害ドキュメント』北斗出版。
斉藤三夫,2004,『物理学史と原子爆弾 核廃絶への基礎知識』新風舎。
進藤榮一,1999,『戦後の原像 ヒロシマからオキナワへ』岩波書店。
進藤榮一,2002,『分割された領土 もうひとつの戦後史』岩波現代文庫。
諏訪澄,2003,『広島原爆 8時15分投下の意味』原書房。
辰巳知司,1993,『隠されてきた「ヒロシマ」 毒ガス島からの告発』日本評論社。
槌田敦・藤田祐幸ほか,2007,『隠して核武装する日本』影書房。
戸田清,2003,『環境学と平和学』新泉社。
伴英幸,2006,『原子力政策大綱批判』七つ森書館。
藤田祐幸,2008,「広島反転攻撃と小倉煙幕作戦」『科学・社会・人間』106号。
舟越耿一ほか,2001,『これが平和学習だ!!』アドバンテージサーバー。
ブラウ,モニカ,1988(原著1986)立花誠逸訳『検閲1945−1949 禁じられた原爆報道』時事通信社。
無署名,2006、「政治的発言の自粛を 長崎平和推進協 被爆語り部に要請」『長崎新聞』1月21日。
前田哲男,1997,『戦略爆撃の思想 ゲルニカ−重慶−広島への軌跡』上下,社会思想社現代教養文庫。
望月洋嗣,2005,「コンゴ廃鉱からウラン盗掘 国連機関が調査開始」『朝日新聞』2月10日。
山川剛,2008,『希望の平和学』長崎文献社。
若木重敏,1989,『広島反転爆撃の証明』文藝春秋。
「原爆と平和教育」アンケート
2006年4月6日作成
戸田清(長崎大学環境科学部、電話095-819-2726、toda@nagasaki-u.ac.jp )
あなたは下記のことをいつ頃お知りになりましたか? あてはまるものを○で囲んでください。
あなたの性別(女、男)
あなたの年齢(10代、20代、30代、40代、50代、60代、70代、80代)
出身市町村 ( )都道府県、( )市町村
@ドイツの降伏以前に原爆対日使用の米英密約があった。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
A広島にはウラン原爆、長崎にはプルトニウム原爆が投下された。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
B広島・長崎以前にウラン鉱山で大量被曝があった。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
C原爆投下の動機には、ソ連への威嚇も含まれていた。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
D米英は原爆の秘密を独占しようとしていた。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
E米国政府は日本を占領していたとき原爆報道を規制していた。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
F東京裁判(極東国際軍事裁判)で、核兵器、生物兵器、化学兵器はどれも裁かれなかった。
(小学生、中学生、高校生、大学生、社会人、今回初めて)のとき知った。
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