戸田清「環境正義と現代社会(Environmental Justice and Modern Society)」
初出『環境思想・教育研究(Journal of Environmental Thought and Education)』創刊号、4-10頁(環境思想・教育研究会)2007年11月30日発行 これに加筆
いわゆる「環境正義(環境的公正)」の思想の意義について、まとめてみたい。環境正義とは、環境保全と社会的正義・公正・平等を統合する思想である。環境破壊に「金持ちや権力者が壊して、貧乏人が被害を受ける」というような構造があることは、かねてから指摘されてきた。米国人や日本人が資源を浪費することで、第三世界や将来世代、さらには自然界が犠牲を被ることも、よく議論される。持続可能で公平な社会をつくろうとするのが、環境正義の思想である。従来の開発主義とはもちろんのこと、いわゆる「エコファシズム」(人間の内部での格差を維持したまま、人間と自然界の均衡をはかる考え方)とも対極にある思想である。
1.アフリカ系米国人、米国先住民、在日コリアンなどマイノリティの環境権
環境正義(environmental justice)という言葉は、環境人種差別(environmental racism)という言葉とセットのようにして、1982年頃に米国でよく使われるようになった。アフリカ系米国人(黒人)や米国先住民(アメリカ・インディアン)の居住地域の近くに有害廃棄物処分場などが立地されることが多い問題などが、公民権運動の経験者などによって、環境面の差別としてとらえられるようになったためである。米国の社会学者でアフリカ系のロバート・ブラードなどが先駆的な研究者としてよく知られている(Bullard and Wright,1992=1993;Bullard,1994)。
環境正義や環境人種差別の文脈でとりあげられる典型的な事例については、ジャーナリスト、マーク・ダウィの説明がわかりやすい(Dowie,1995=1998:182)。彼は、次のような例をあげている。
・アフリカ系米国人の乳児の血中鉛濃度が高い。工場、塗料、有鉛ガソリン(日本より規制が遅れた)などが原因である。
・EPA(連邦政府の環境保護庁)の研究によると、有害廃棄物処分場はアフリカ系、ヒスパニック系低所得層の地域社会に立地されることが多い。焼却炉の立地する地域社会の有色人種比率(アフリカ系、アジア系、太平洋諸島系、先住民)が大きい。
・ウラン鉱山と放射性廃棄物の影響は、先住民保留地に集中している。ナバホ民族の10代の癌が全国平均の17倍になる。
・ヒスパニック系農業労働者に農薬中毒が多い。レーガン政権はEPAによる農薬中毒の統計作成を中止させた。
・大都市中心部の黒人は大気汚染で喘息になる人が多い。死亡率は白人の5倍になる。
・主流環境団体の3分の1は有色人種のスタッフがいない。
こうした環境格差、健康格差の問題は、日本では経済学者の宮本憲一が、「公害の被害は生物的弱者や社会的弱者に集中する傾向がある」とまとめている(庄司・宮本,1975)。小泉政権時代に「格差社会」への関心が高まるなかで、経済格差と並んで「健康格差」の問題も改めて注目されるようになってきた(近藤,2005)。
米国先住民と核廃棄物について調査している地理学者の石山徳子は、「環境正義運動とは、環境保護と社会正義の理念を統合し、社会的弱者といえる貧困層やマイノリティの生活環境の改善に焦点をあてた市民運動を指す。」(石山,2004:17)と定義している。「分配型正義」(核廃棄物施設が結果的にどこに立地されるか)と「過程型正義」(原発推進か脱原発かの決定を含む意思決定過程への参加、自治権)の問題があると指摘されているが、実体的正義と手続き的正義の問題と言い換えてもよいであろう。日本の若手研究者による米国の環境正義運動のフィールドワークの力作(石山,2004;鎌田,2006)は、是非多くの人に読んでほしい。
クリントン大統領は1994年に環境正義に関する大統領命令を出し、EPAに「環境正義事務局」を設置した。しかし、米国政府のいう環境正義は「国内マイノリティ(アフリカ系、先住民、メキシコ系)の環境運動への支援」に限定され、核政策や大国主義(帝国主義)と両立可能とされているような気がしてならない。ブッシュ政権といえども、EPAの環境正義担当部門を廃止してはいない。(なお、ウェブサイトは、http://www.epa.gov/environmentaljustice/index.html である。)けれども、環境正義は、EPAの国内政策課題のひとつにとどまる。たとえば、環境正義の視点でペンタゴンの政策を見直すと大変なことになる。劣化ウラン兵器などの使用はもちろんのこと、アフガニスタン侵攻やイラク侵攻自体が許されないという当然の結論になるからだ。
日本でもマイノリティにとっての環境問題を扱うときに、「環境正義」がキーワードとなる事例がある。たとえば、大阪空港近辺の在日コリアン・コミュニティと騒音や移転補償の問題である(金菱,2006)。日本企業が米国の環境正義問題にかかわることもある。大手プラスチック会社信越化学が黒人低所得層の多い地域に塩化ビニル工場を立地しようとして、環境人種差別であると問題になった(本田,1999;本田ほか,2000)。
2.核開発と環境正義
2006年11月23日に元ロシア情報部員アレクサンドル・リトビネンコがロンドンで変死(毒殺と思われる)したことで「猛毒の放射性物質ポロニウム210」に注目が集まった。半減期138日でアルファ線を出し、その摂取限度はわずか7ピコグラム(1兆分の7グラム)だという。リトビネンコは、プーチン政権の野蛮なチェチェン政策を批判していた。ポロニウムはキュリー夫妻によって1898年に発見され、マリー・キュリーの祖国ポーランドにちなんで命名された。ポロニウム210はリン酸肥料由来(リン鉱石はウラン鉱石に次いでウランの含有量が多く、ポロニウムはウランから生じる)で煙草の煙に含まれる放射能としても有名で、喫煙者の肺癌、喉頭癌の原因の一部をなす。主流煙(喫煙者の肺に入る)よりも副流煙(周りの人の受動喫煙の原因になる)に多く含まれる。ポロニウムをめぐって核と直接的暴力と構造的暴力がつながっている。
核(nuclear)と原子力(atomic)は、軍事にも民事にも使われるが、日本ではなぜか「核兵器」「原子力発電」のように用語の棲み分けができてしまった。韓国の反原発運動は「核発電」に相当する言葉を使うが、日本ではほとんど使わない。しかし、政府、業界が推奨する「原子燃料」「原子燃料サイクル」という言葉はほとんど使われず、「核燃料」「核燃料サイクル」が定着してしまったことは興味深い。廃棄物は、「核廃棄物」あるいは「放射性廃棄物」と呼ばれる。大量破壊兵器については、以前は「ABC兵器」と言っていたが、最近は「NBC兵器」ということが多いようだ。AとNは核、Bは生物(biological)、Cは化学(chemical)である。
核開発には、地球規模で環境正義の問題が最も典型的にあらわれていると言ってよいであろう。核燃料サイクルのなかでウラン鉱山は最大の被曝源であるが(戸田,2003b)、アメリカやカナダの先住民が大きな影響を受けた。原爆開発のマンハッタン計画では、ベルギー領コンゴ(当時)の住民が採掘にかり出されている。原発における被曝労働は電力会社の社員に比べて圧倒的に下請け労働者に集中し、下請け労働者の供給源は、低賃金労働者やマイノリティ(山谷、釜が崎、出稼ぎ農民、炭坑離職者、黒人、旧植民地人など)である。核実験も、先住民、少数民族などマイノリティに被害が集中し、豊崎博光は「ニュークリア・レイシズム」(核の人種差別)と呼んでいる(グローバルヒバクシャ研究会編,2006)。ネバダ州の核実験場でも、風がロサンゼルスやラスベガスのような大都市の方向に吹くときには実験を停止し、ネバダ州やユタ州の過疎地域に向かって吹くときに行っていたので、地域差別でもあった。原発は電力の大量消費を支える道具である。東京電力は自社管内に原発を持たず、隣の会社(東北電力、北陸電力)の土地に原発を立地して、首都圏の大量消費を支えている。原発銀座若狭の住職中嶌哲演は、原発問題で問われているのは、「安全神話」はもとより、「必要神話」そのものではないかと指摘する(中嶌、2006)。
歴史的にみると、核の民事利用は軍事利用の副産物にすぎない。広島原爆(ウラン原爆)をつくるためにウラン濃縮が必要であった。長崎原爆(プルトニウム原爆)をつくるために原子炉と再処理が必要であった。原子炉は後に発電と船舶推進(軍艦と民間船)に転用される。核兵器や核燃料をつくるためにウランを濃縮するときの副産物が劣化ウランである。核開発の3点セット(ウラン濃縮工場、原子炉、再処理工場)をすべて持っているのは核兵器保有国と日本だけである(小出,2006)。日本は核燃料再処理とプルサーマル運転を国策とし、原爆5000発分のプルトニウムをためこんでいる。安倍晋三首相の周辺は、核兵器保有に前向きのようだ(中西編,2006)。原爆投下の目的はソ連威嚇と人体実験であったと見られるが(木村,2006)、日本の右派は、原爆を浴びた日本には核武装の権利があると主張する。
広島・長崎の「二重被爆」はドキュメンタリー映画(2006年)にもなったが、長崎原爆と原発被曝労働の「二重ひばく」の例もあるという(肥田,2004:194)。
米国のイラク問題やロシアのチェチェン問題に典型的に見られるような「核大国の暴走」の背景にその特権意識があることは言うまでもないだろう(森住,2005;林・大富,2004)。
3.資源・環境問題と南北格差・戦争
世界人口の5%を占める米国が世界のGDPの30%(戦後すぐには50%)、世界の軍事費の50%を占めている。1948年にジョージ・ケナンが次のごとく示唆したように、こうした不平等を維持するために、いざというときには、力の行使が必要となる。「アメリカは世界の富の50%を手にしていながら、人口は世界の6.3%を占めるにすぎない。これではかならず羨望と反発の的になる。今後われわれにとって最大の課題は、このような格差を維持しつつ、それがアメリカの国益を損なうことのないような国際関係を築くことだろう。それにはあらゆる感傷や夢想を拭い去り、さしあたっての国益追求に専念しなければならない。博愛主義や世界に慈善をほどこすといった贅沢な観念は、われわれを欺くものだ。人権、生活水準の向上、民主化などのあいまいで非現実的な目標は論外である。遠からず、むき出しの力で事に当たらねばならないときがくる(西山,2003:212)。」世界の資源の25%を「必要」とするという1997年のクリントン大統領の発言もケナン論文の延長にある(梅林,1998:25;西山,2003:213;戸田,2003b:26)。「不平等を維持するために軍隊が必要」なのである(梅林,1998:25)。世界に占める米国のシェアが人口5%、喫煙関連疾患9%、炭酸ガス排出23%、原発の数24%、牛肉消費24%、石油消費25%、紙の消費29%、自動車保有29%、GDP32%、銃保有33%、軍事費46%、違法麻薬消費50%、戦略核兵器53%であるというのは、「アメリカ問題」を象徴する数字である(戸田,2007)。不必要なものをたくさん生産して家計に押し込むためには、大量の広告が必要となる。世界の広告費に占めるシェアは、米国が66%、日本が12%である(Draffan,2003:10)。
20世紀の石油文明が「大量採取・大量生産・大量消費・大量廃棄」(見田,1996)のシステムを形成した。石油浪費文明の形成を先導したのは、米英海軍と米国自動車産業であったと言ってよい。1942年(原爆開発のマンハッタン計画始動)以降の原子力を組み込んだ石油文明は、「後期石油文明」と言ってよいであろう。槌田敦が指摘したように、「原子力は石油の缶詰」であって、原子力開発には大量の石油が必要である(槌田,1978)。原子力発電所自体は炭酸ガスを出さないが、核燃料サイクル全体では大量の化石燃料を消費する。たとえば、米国オークリッジのウラン濃縮工場は、100万キロワット火力発電所二基によって支えられている(Caldicott,1994:56)。
南北問題・南北格差を考えるとき、少なくとも、経済格差、健康格差、資源格差、環境格差などを考慮すべきであろう。最低賃金の時給は、東京都で約700円、長崎県で約610円である(朝日新聞2006年7月27日)。米国でも6~7ドル前後であるから、日本とあまり変わらない。ニューオーリンズのマルディグラという祭りで使われるビーズを福建省の工場で日給約3ドル、1日12時間労働の若い女子労働者がつくる様子が米国の映像作品で描かれている。スチレン(神経毒、発癌性)の蒸気を吸い込んで健康も害するかもしれない(NHK,2006)。1996年の平均寿命は日本で80歳、インドで63歳、乳幼児死亡率は日本で1000人あたり6人、インドで85人であった(戸田,2003b:173)。インドは地域大国・IT先進国・「核保有国」でもある。アフガニスタン、シエラレオネ、ハイチなど「最貧国」の保健指標ははるかに深刻である。
1人あたり資源消費の格差を示す指標はいくつもあるが、最もポピュラーなものは、カナダで開発された「エコロジカル・フットプリント」である(Wackernagel and Rees,1996=2004;Chambers,Simmons and Wackernagel,2000=2005)。資源消費をいくつかの仮定をおいて面積に換算するもので、世界自然保護基金(WWF)の試算によると、米国は9.5ヘクタール、日本は4.3ヘクタール、世界の公平割り当ては1.8ヘクタールである。世界中の人が日本並みの生活をすると「2.4個の地球」が、米国並みの生活をすると「5.3個の地球」が必要になるという(Chambers,Simmons and Wackernagel,2000=2005:167)。人類全体の資源消費は、地球の容量を20%ほど超過(オーバーシュート)した状況になっている。
ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、1969年に「直接的暴力」と「構造的暴力」の概念を提起し、1980年代に「文化的暴力」を付け加えて、平和学を革新するとともに、社会諸科学に大きな影響を与えた(Galtung,1998=2006)。殺人、強姦、戦争のように加害の意思が明確なものが直接的暴力であり、有害商品の合法的販売、経済制裁、世界銀行・国際通貨基金の構造調整プログラム(SAP)、自動車中心の交通体系のように、加害の意思が明確でないが、社会の構造を通じて生命や健康の損失が生じるものが構造的暴力である。暴力を正当化する言説などは、文化的暴力である。煙草会社の目的は利潤獲得であって、病気の生産ではないが、年間に世界で500万人、米国で44万人、日本で10万人が喫煙関連疾患で死亡する。経済制裁やSAPでは乳幼児死亡率が増大する(戸田,2003b)。先進国は自動車保有台数の60%を占めるが、交通事故死者数の14%を占めるにすぎない。発展途上国は自動車保有台数の40%を占めるにすぎないのに、交通事故死者数の86%を占める(Williams,2004=2005:110)。世界社会における貧富の格差という構造的暴力によって、クルマ社会のインフラが発展途上国では未整備であり、先進国がクルマ社会の便利さを相対的に多く享受しているのに対して、発展途上国はクルマ社会のリスクを相対的に多く被っている。SAPの理論的背景はネオリベラル経済学である。軍国主義やネオリベラル経済学や「対テロ戦争」の言説は、代表的な文化的暴力である。従来暴力といえば人間に対する暴力を想定するものであったが、ガルトゥングは「自然に対する暴力」も射程に入れている(Galtung,1996:33)。
階級分化がすすんでからの前近代社会は、奴隷制、封建制のように、身分社会という意味で不平等が制度化されており、構造的暴力を再生産するものであった。この約500年間の近世・近代社会は、形式的平等は次第に進展したが(民主化)、実質的不平等は存続している。世界システム論の観点からいえば、資本主義世界システムは階級格差と人種差別を制度化している(Wallerstein,2003=2004;宮寺,2006)。フェミニスト世界システム論の観点からいえば、資本主義世界システムはそれらに加えて、女性と自然に対する抑圧も本質的要素として組み込んでいる(宮寺,2006)。
カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインは、友人からの手紙の一節を紹介する。「共感・同情というのは決して平等ではない。死のヒエラルキーは、本当にひどいものだ。1人のアメリカ人の死は、2人の欧州人の死に匹敵し、10人のユーゴスラビア人、50人のアラブ人、200人のアフリカ人の死に匹敵する。それには権力と、富と、人種が関係する。」(Klein,2002=2003:32)。旧ユーゴ、アフガニスタン、イラク、レバノンなどで目撃された「空爆の思想」は、欧米人やイスラエル人の死者を減らすことを優先する人種主義である。20世紀前半に全体主義(ナチスドイツ、大日本帝国)が始めた都市無差別爆撃(ゲルニカ、重慶)をエスカレートさせたのは、民主主義の英米(ドレスデン、東京、広島、長崎)であった。戦争は、その目的(先進国の浪費の維持)においても手段(空爆)においても、人種主義を内蔵している。東京裁判は「間違っていた」わけではないが、著しく不完全なものであった。米国などの目から見て裁いてよい日本の戦争犯罪が裁かれ、裁くのは都合が悪い戦争犯罪(731部隊など)は免責された。原爆投下を始めとする戦勝国の戦争犯罪はもちろん免責された。平和に対する罪、人道に対する罪、戦争犯罪を裁くという普遍主義は、かけ声だけに終わった。その結果、空爆、クラスター爆弾、劣化ウラン兵器などがいまも猛威をふるっている。ニュールンベルク裁判・東京裁判が目指すべきであった普遍主義を実現すればどうなるかを示すために、「民衆法廷」がある。もちろん民衆法廷に強制力はないが、ベトナム戦争、女性に対する犯罪、アフガニスタン戦争、イラク戦争などが俎上にあげられ、最新のものは、原爆投下を裁く国際民衆法廷・広島(2006年)である。
400年以上続いた領土獲得をめざす列強帝国主義は、20世紀後半には、領土拡大ではなく、資源と市場の確保・秩序維持を主眼とする現代帝国主義(米国を盟主とする集合的帝国主義)に移行した(渡辺・後藤編,2003)。現代帝国主義の時代は、変動相場制への移行あたりを境に、ケインズ主義から新自由主義(ネオリベ)に移行した。軍事的ケインズ主義はもちろん連続しているが、ネオリベの時代になって民間軍事会社の比重は高まっている。従属的帝国主義としての日本も、小泉政権の新自由主義構造改革と軍事大国化に見られるように、このシステムへの「適応」に努力している。環境不正義も、グローバル資本主義の政治経済軍事文化構造との関連で理解すべきものであろう。クリントン政権のように環境正義問題を国内マイノリティの問題のそのまた一部分へと矮小化するのではなく、米国マイノリティの環境思想や第三世界の環境思想などを参照しながら、環境正義とグローバル正義を結びつけて理解する必要がある(Hofrichter,ed,1993;Merchant,ed,1994;戸田,2003b:Trittin,2002=2006)。
世界システムのサブシステムであり、やはり構造的不平等を克服できず、「効率」も悪かった「権威主義的社会主義」は20世紀末に崩壊した。しかしその遺産はすべて放棄すべきだというわけではない。ソ連崩壊後のキューバは、有機農業大国、医療援助大国としても、大きな存在感を示している。資本主義が構造的暴力を克服することは困難であると考えられる。資本主義に代わるシステムの構築は、課題であり続けている。
4.持続可能な社会と世代間正義
日本政府(経済産業省・文部科学省)は高レベル放射性廃棄物について300年間の隔離を要するとしているが、米国のエネルギー省は1万年間の隔離を要するという見解(石山,2004:49)である。しかし、「米国政府」が1万年も「持続可能」だろうか? いまのような形(資本主義大国、軍事大国)で、22世紀に存続しているかどうかさえあやしいであろう。ヘレン・コルディコット(反核運動で知られるオーストラリアの医師)は、放射能は半減期の20倍程度の期間は管理(人間環境からの隔離)が必要であると指摘する(Caldicott,1994:150)。2分の1の20乗は0に近いという理解である。セシウム137やストロンチウム90は半減期が約30年だから、600年、プルトニウム239は半減期が24000年だから480000年(約50万年)になる。現実的な判断であろう。劣化ウランの主成分であるウラン238は半減期が45億年だから、20倍すると900億年になり、人類の消滅、地球生態系の消滅よりずっと先のことになろう。
米国の石油生産は1970年にピークとなり、その後減り続けているが、世界全体の石油生産もそろそろピークをむかえるであろう。このように主張する「石油ピーク」の議論が有力である(Klare,2004=2004;McQuaig,2004=2005)。石油・天然ガスを土台とする石油文明は、数世紀のオーダーで考えるとき、明らかに持続不可能である。石炭はもう少し資源量が豊富であるが、地球温暖化がいっそう深刻になる。後期石油文明の重要な構成要素である原子力は、石油に依存しているので、石油文明に代わって原子力文明が成立することはない。石油と原子力の「恩恵」の享受が終わってからも、将来世代は核廃棄物という負の遺産は永久に管理しなければならない。核は「ニュークリア・レイシズム」や過疎地差別によって世代内の環境正義を大きく損なっているが、世代間の環境正義もまた大きく損なわれている。「予防原則」(大竹・東,2005)に大きく反するものであろう。
石油文明が終焉すれば、再び自然エネルギーを主体とするが、産業革命以前への逆戻りではなく、石油文明の正の遺産であるハイテクは活用されるだろう。しかし、エネルギー大量浪費を維持することはできない。自然エネルギーでも効率(投入あたりの産出)は高められるが、能率(時間あたりの産出)は石油文明の独壇場であろう。能率の高い技術を駆使して、「高速移動、大量生産、大量破壊」を実現した「アメリカ型文明」は、22世紀に生き残ることができない。
米国は世界一の核発電大国であり、2位のフランス、3位の日本を大きく引き離している(「原子力発電」という言葉の使用はなるべく控えたい)。ブッシュ政権はカーター政権以来止まっていた核発電所の新設を、税制優遇などを用いて再開しようとしているが、2008年に選出される次期政権で見直されるのではないだろうか。
潜在的核武装の路線をとる「プルトニウム大国」日本(プルサーマル・高速増殖炉・核燃料再処理を推進)では、環境法が、環境基本法体系(環境省所管)と原子力基本法体系(文部科学省、経済産業省所管)に分断されている(戸田,2003b:195)。環境基本法第13条、環境影響評価法(環境アセスメント法)第52条、循環型社会形成推進基本法第2条の2、廃棄物処理法第2条、化学物質審査規制法第2条には、放射性物質を適用除外とすることが定められている。米国の国家環境政策法(NEPA)や有害物質規制法(TSCA)との違いである。
5.人間中心主義と自然の内在的価値
人間と生物界は、生命40億年の歴史のなかで、進化的に連続している。どこかで断絶線を引くことはできない。類人猿(チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータン)に対しては雄雌ではなく男女、一頭ではなく一人と呼ぶべきだという松沢哲郎(京都大学霊長類研究所)の主張に私は賛成である。彼らは「進化の隣人」である。その彼らを絶滅の瀬戸際に追い込んだり、「残酷な実験」の対象にしたりすることは、特に罪深い。人間が「文化」であり、類人猿は「自然」の一部なのだろうか。人間に最も近縁で、人間から等距離にあるチンパンジーとボノボが、人間と並んで暴力的なチンパンジーと、類人猿のなかで最も平和的なボノボという両極端に分かれてしまった。600万年ほど前に人間が類人猿と袂を分かったとき、チンパンジーとボノボはまだひとつの種であった。そのあとで分岐したのである。遺伝的な違いはわずかである。暴力の文化と平和の文化の違いという面が大きいであろう。
ガルトゥングは暴力論のなかで自然も位置づけている。自然における直接的暴力が「最適者生存」であり、自然に対する構造的暴力が「エコサイド」(大規模な生態系破壊)である。なお構造的暴力について「社会」のレベルで家父長制、人種主義、階級、「世界」のレベルで帝国主義、貿易、「文化」のレベルで文化帝国主義があげられていることも興味深い(Galtung,1996:33)。
内在的価値は人間だけにあるのではない。人間に対する暴力だけでなく、自然に対する暴力もある。人間中心主義の再考が必要である。アニマルライツや自然の権利の思想も、環境正義や暴力と平和の観点から見直す必要がある。分配正義には、「人間と自然の分配正義」の観点も必要である。人類のオーバープレゼンスによって、生物多様性は損なわれていく。公害の影響がまずあらわれる「生物的弱者」には、動植物も含まれる。水俣病の前兆は魚や鳥や猫にあらわれた。カネミ油症の前兆は鶏にあらわれた。自然にやさしくない文明は、人間に対してもやさしくない。
(本稿は、東京農工大学農学部で2006年8月2日に開催された「環境思想・教育研究会 第3回研究例会」での報告内容を文章化して、加筆したものである。)
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宮寺卓,2006,「世界システム論と環境問題」『季刊軍縮地球市民』6号、明治大学軍縮平和研究所、西田書店発売。
森住卓,2005,『イラク 占領と核汚染』高文研。
安田喜憲,2006,『一神教の闇 アニミズムの復権』ちくま新書。
横山正樹ほか,2006,「特集・環境平和学のススメ」『季刊軍縮地球市民』6号、明治大学軍縮平和研究所、西田書店発売。
渡辺治・後藤道夫編,2003,『講座 戦争と現代1 「新しい戦争」の時代と日本』大月書店。
Bryant,Bunyan ed,1995,Environmental Justice:Issues,Policies and Solutions,Island Press.
Bullard,Robert,1994,Dumping in Dixie:Race,Class and Environmental Quality,Westview Press.
Bullard,Robert,and Beverly Wright,1992,Quest for Environmental Justice,R.E.Dunlap and Angela Mertig eds,American Environmentalism:The U.S. Environmental Movement,1970-1990,Taylor and Francis.(=1993,戸田清訳「環境的な公正を求めて アフリカ系コミュニティでの環境闘争」ダンラップ&マーティグ編『現代アメリカの環境主義』満田久義監訳,ミネルヴァ書房。)
Caldicott,Helen,1994,Nuclear Madness,revised edition,W.W.Norton.(1978年初版の邦訳は高木仁三郎・阿木幸男訳『核文明の恐怖』岩波書店,1979)
Chambers,Nicky,Craig Simmons and Mathis Wackernagel,2000,Sharing Nature’s Interest,Earthscan.(=2005,五頭美知訳『エコロジカル・フットプリントの活用』合同出版。)
Dowie,Mark,1995,Losing Ground:American Environmentalism at the Close of the Twentieth Century,MIT Press.(=1998,戸田清訳『草の根環境主義 アメリカの新しい萌芽』日本経済評論社。)「第6章 環境正義」
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Galtung,Johan,1998,Die Andere Globalisierung,agenda Verlag.(=2006,木戸衛一・藤田明史・小林公司訳『ガルトゥングの平和理論 グローバル化と平和創造』法律文化社。)
Griffin,David,2004,The New Pearl Harbor:Disturbing Questions about Bush Administration and 9/11,Olive Branch Press.(=2007,きくちゆみ・戸田清訳『9・11事件は謀略か 「21世紀の真珠湾攻撃」とブッシュ政権』緑風出版。)
Hofrichter,Richard,ed,1993 Toxic Struggles:The Theory and Practice of Environmental Justice,New Society Publishers.(ホフリクターによる序論の邦訳は、鈴木昭彦訳「環境的公正 その理論と実践」戸田清ほか編『環境思想の系譜 2』東海大学出版会,1995)
Klare,Michael,2004,Blood and Oil,Henry Holt and Company.(=2004,柴田裕之訳『血と油 アメリカの石油獲得戦争』NHK出版。
Klein,Naomi,2002,Fences and Windows,Westwood Creative Artists.(=2003,松島聖子訳『貧困と不正を生む資本主義を潰せ』はまの出版。)
McQuaig,Linda,2004,It’s the Crude,Dude War、Big Oil and the Fight for the Planet,Doubleday.(=2005,益岡賢訳『ピーク・オイル 石油争乱と21世紀経済の行方』作品社。)
Mendes,Chico,1989,Fight for the Forest:Chico Mendes in His Own Words,Latin American Bureau.(=1991,神崎牧子訳『アマゾンの戦争 熱帯雨林を守る森の民』現代企画室。)
Merchant,Carolyn ed,1994,Ecology,Humanities Press.第5部 環境正義(ピーター・ウェンズ、ロバート・ブラード、ウィノナ・ラデューク、ヴァンダナ・シヴァ、ラマチャンドラ・グハ)
Patterson,Charles,2002,Eternal Trebulinka:Our Treatment of Animals and the Holocaust,Lantern Books.(=2007,戸田清訳『永遠の絶滅収容所 動物虐待とホロコースト』緑風出版。)
Saro-Wiwa,Ken,1995,A Month and a Day.(=1996,福島富士男訳『ナイジェリアの獄中から 「処刑」されたオゴニ人作家、最後の手記』スリーエーネットワーク。)
Shiva,Vandana,1993,Monculture of the Mind,Third World Network.(=2003,戸田清ほか訳『生物多様性の危機』明石書店。)
Szasz,Andrew,1994,EcoPopulism:Toxic Waste and the Movement for Environmental Justice,University of Minnesota Press.
Trittin,Jürgen,2002,Welt um Welt:Gerechtigkeit und Globalisierung,Aufbau-Verlag.(=2006,今本秀爾監訳『グローバルな正義を求めて』緑風出版。)著書はドイツの前環境大臣(緑の党)
Wallerstein,Immanuel,2003,The Decline of American Power:The U.S. in a Chaotic World,The New Press.(=2004,山下範久訳『脱商品化の時代 アメリカンパワーの衰退と来るべき世界』藤原書店。)
Weatra,Laura and Peter Wenz eds,1995,Faces of Environmental Racism:Confronting Issues of Global Justice,Rowman and Littlefield.
Werner,Klaus & Hans Weiss,2003,Das Neue Schwarzbuch Markenfirmen,Franz Deuticke Verlagsgesellscaft.(=2005,下川真一訳『世界ブランド企業黒書 人と地球を食い物にする多国籍企業』明石書店。)
Williams,Jessica,2004,50 Facts that should Change the World,Icon Books.(=2005,酒井泰介訳『世界を見る目が変わる50の事実』草思社。)
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