「第6回長崎平和研究講座(20071013日) 環境学と平和学の接点 公害と戦争を中心に」『長崎平和研究』25号(長崎平和研究所、2008年4月)116133

  戸田清(長崎大学環境科学部)

 

1.はじめに

 

20世紀は「戦争と環境破壊の世紀」であった。21世紀は「平和と環境保全の世紀」でなければならない。そうでなければ、22世紀の人類の文化は破滅的な事態になっているであろう。世界人口の6%を占める米国が世界の資源の25%を必要とする「不平等」を「維持」するために、時には「力の行使」が「必要」だと米国の高官は言う。米国の軍事費は世界の50%。戦争は最大の環境破壊、資源浪費である。それでも戦争や犯罪で死ぬ人よりも煙草病で死ぬ人のほうが多い。水俣病やカネミ油症などの被害者への対応にも構造的暴力があらわれている。環境学と平和学の接点を様々な視点から考えたい。

 

2.「石油のための戦争」

 

 2003年に米国が開始したイラク戦争は、大量破壊兵器の疑惑、アルカイダとのつながり、民主化という開戦理由がすべて破綻して、泥沼状態になっている。古代文明の遺産もツワイサ核施設も略奪が放置されるなかで「石油省」だけは米軍が厳重に警備しているエピソードに象徴されるように、「石油のためだけの戦争」ではないにしても、「石油のための戦争」という側面が重要であることは否定できないであろう。フォード(自動車の大衆化)とゼネラルモーターズ(モデルチェンジの導入による無駄の制度化)に主導された「クルマ社会化」が典型的に示しているように、「20世紀文明」は「石油文明」である(石油文明の成立に最も貢献したのは、英米海軍とフォード社である)。20世紀初頭において、世界最大の産油国は米国であった。1970年頃に米国の石油採掘量はピークを迎え、その後は石油の輸入依存度が増大を続けている。世界の石油採掘量も2010年頃にはピークを迎えるのではないかという「石油ピーク説」(注1)がひとつの有力な学説となっている(McQuaig2004200545)。それなのに、米エネルギー省は、米国の石油消費量が少なくとも2020年までは増加し続けると予測している(Klare2004200436)。

 中国やインドをはじめとする新興工業国の石油需要も増大するなかで、先進国が石油浪費文明を維持しようとするならば、中東などの石油資源の争奪が大きな「課題」とならざるをえない。1953年のイランのモサデク政権(民族主義)の倒壊とパーレビ独裁政権(親米)の成立に米国がCIA(中央情報局)などを通じて関与した動機は石油であったが、米国が中東の「死活的国益」(その中心は石油資源)を確保するためには軍事力の発動を辞さないことを「公式に」決めたのは、カーター政権末期のことであった。イラン・イスラム革命とソ連のアフガニスタン侵攻を契機として策定された、いわゆる「カーター・ドクトリン」である。ここで設置された「緊急展開部隊」がレーガン政権によって現在の「中央軍」に再編された。湾岸戦争でもイラク戦争でも、その中央軍が「活躍」した(宮嶋,1991Klare20042004)。

「アメリカ的生活様式」と軍事政策の関連を示唆するものとしてよく引用されるのは、国務省政策企画部長であった故ジョージ・ケナン(ソ連地域を専門とする外交官)の非公開メモ(1948年に書かれたが、有権者の情報開示されたのは1974年)のなかの次の一節である。西山俊彦の著書から引用しておこう。

 

1948年、第二次大戦直後に米国国務省のG・ケナンはこう指摘した−「アメリカは世界の富の50%(2001年に31%)を手にしていながら、人口は世界の6・3%(2001年に5・0%)を占めるにすぎない。これではかならず羨望と反発の的になる。今後われわれにとって最大の課題は、このような格差を維持しつつ、それがアメリカの国益を損なうことのないような国際関係を築くことだろう。それにはあらゆる感傷や夢想を拭い去り、さしあたっての国益追求に専念しなければならない。博愛主義や世界に慈善をほどこすといった贅沢な観念は、われわれを欺くものだ。人権、生活水準の向上、民主化などのあいまいで非現実的な目標は論外である。遠からず、むき出しの力で事に当たらねばならないときがくる。」 第二次大戦に勝利して新しい覇者となったアメリカが、自己の「生活様式American Way of Life」を冷徹なプラグマティズム実利主義でもって貫こうとする、明確な国家意思がこの言葉に示されている。これに対照して見れば、昨今のアメリカ政府の言動は、「人権」とか「親善」とかの美辞麗句を取り去って少しく正直になっただけなのかも知れない(西山,2003212213)。

 

梅林宏道もこのケナン発言を引用し、続けてクリントン大統領が1997年に「われわれは世界の人口の4%を占めているのに、世界の富の22%を必要としている」と述べたことを指摘する。梅林の著書では、ケナンやクリントンを引用した部分に、<「不平等を維持する」ための軍隊>という小見出しがついている(梅林,199825)。さらには、2001年9月11日の「同時多発テロ」をめぐる疑惑(イスラム過激派の単独犯行ではなく、米国政府自身が自国民に対するテロを支援した疑いを示唆する多くの状況証拠がある)などに見られるように、戦争の口実をつくるための不正行為(国家犯罪)さえ示唆されている(Griffin2004=近刊、;Geriffin and Scott eds2006,;Geriffin et al2006Geriffin2006;木村,2007)。この疑いがもし事実であるならば、「アメリカ帝国」の末期症状も極まるといえよう。

現在、米国の人口は世界人口の5%でありながら、他方で世界の広告費の65%、戦略核兵器の53%、違法麻薬消費の50%、軍事費の46%、銃保有の33%、GDPの32%、自動車保有台数の29%、紙消費の29%、石油消費の25%、原子力発電所の24%、牛肉消費の24%、炭酸ガス排出の23%、喫煙関連疾患死亡数の9%を占めている(戸田,近刊b)。米国の自動車保有台数(1995年に1000人あたり766台)は世界平均(114台)の6・7倍になる(戸田,2003173)。広告費のシェア(2位は日本の12%)が高いのは(Draffan200310)、不必要な商品をたくさん作って「押し売り」するためであろう。

ブッシュ政権は最近バイオエネルギーに力を入れるとしているが、植物資源をめぐって食料とエネルギーの競合が生じ、第三世界の栄養不足人口を一層苦しめることになろう(『月刊オルタ』2007年2月号の特集などを参照)。

 この21世紀には地球温暖化や工業化の世界的進展などとも相まって水問題(水不足、水汚染、洪水、水浪費など)も深刻化するであろう。石油、水、金属など、さまざまな資源をめぐる紛争の多発が予想されている(Klare 20012002)。

 

3.ガルトゥングの暴力概念

 

梅林が指摘するのは、「構造的暴力(資源消費の不平等)を維持するために直接的暴力が必要になる」という論理である。

ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング(1930〜  )は、1969年に「直接的暴力」と「構造的暴力」の概念を提出した。1980年代に「文化的暴力」をつけ加える(Galtung1996Galtung・藤田編,2003)。従来の平和研究は「戦争と平和の研究」であったが、「戦争さえなければ、飢餓や差別や人権侵害や公害があっても平和と言えるのか」という問題提起がなされ、1970年代以降の平和研究は「暴力と平和の研究」という色彩が強くなった。戦争は暴力の頂点として位置づけられる。

暴力とは、「潜在的な可能性が人為的に妨げられること」である。古代・中世における感染症は天災であったが、医学の発達した現代において、第三世界で予防・治療可能な感染症によって多くの人命が失われるのは、医療資源の不平等な配分がもたらす暴力である。直接的暴力とは、戦争や殺人や強姦のように、加害の意思をもって相手の生命や健康を傷つけることである。構造的暴力(間接的暴力、暴力の制度)とは、たとえ加害の意思がなくても(被害が予見できる「未必の故意」に相当する場合はあると思うが)、社会の構造によって生命や健康などが侵害されることである。飢餓、差別、人権侵害、公害、浪費と貧困の並存などがその例である。国家や国際機関の政策では、世界銀行・国際通貨基金の「構造調整プログラム(SAP)」やイラク経済制裁(19902003)も構造的暴力である。イラク経済制裁では、子どもを中心に100万人以上の罪なき市民が死亡した(Pilger20022004;戸田,2003)。「イラク経済制裁でたくさんの子どもが死ぬのは、かわいそうだけど、仕方ないのですよ」などと教育の場で言うことは許されないであろう。資本主義世界システムの構造は不平等なものであり、その犠牲は第三世界の低所得層の子どもたちに集中する傾向がある(Werner and Sanders19971998)。ウラン開発(軍事利用と民事利用の共通の出発点)から核兵器、劣化ウラン兵器、原発、核燃料再処理工場などに至る原子力開発(大庭,2005,などを参照)は、最も射程の長い構造的暴力である。危険な核廃棄物のなかの長寿命核種を、人類は今後数十万年以上にわたって管理しなければならないからだ。

WHOの推計によると、煙草の合法的販売によってもたらされる煙草病の死者は、世界で年間500万人である。米国では年間40万人である。日本での煙草病の死者は年間に能動喫煙で11万人、受動喫煙で2万人である。これは、典型的な構造的暴力である。煙草会社の目的は、煙草病の生産ではなく、利潤の追求である。しかし有害性を承知のうえであるから、「未必の故意」であると言ってよいであろう。環境、平和、人権などの研究や運動に取り組みながらなお喫煙習慣から離脱できない人も少なくない。

煙草病の死者が世界で年間推計500万人というのは、どのくらい大きな数字なのであろうか。他の死亡原因と比べてみよう。煙草病は3大感染症のいずれをも上回るが、3大感染症が束になると煙草病を上回る。世界の3大煙草会社はフィリップ・モリス、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ、日本たばこ産業(JT)である。日本人と英米人の責任はとても大きい。

餓死 1000万人以上

煙草病 500万人

エイズ 300万人

結核 200万人

交通事故 120万人

公害病 不明(中国だけで100万人以上)

マラリア 100万人

戦争 50万人(ただし国家に殺された人は20世紀の平均で年200万人)

「構造的暴力」の被害が直接的暴力の被害を上回っていることが注目される。交通事故死者の分布に南北問題の構造が反映されていることにも注目すべきであろう。発展途上国は交通安全のインフラの未整備などにより、自動車台数が少ない割に死者は多いのである。先進国は世界の自動車保有台数の60%を占めるのに、世界の交通事故死者の14%にとどまっている(WilliamsJessica20042005110)。公害病(大気汚染や水質汚濁などによる病気)は不明であるが、中国だけで100万人を越えるという(朝日新聞2007年3月6日社説を参照)。

近代世界システム=資本主義世界経済(Wallerstein19951997)そのものが、格差拡大の論理を内包しており、構造的暴力であると言ってよいであろう。文化的暴力(暴力の文化)とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化、合法化しようとする言説などを言う。侵略戦争を正当化する靖国の思想や、福祉の切り捨てを正当化する新自由主義も、文化的暴力であろう。

ガルトゥングは、戦争の不在を「消極的平和」、戦争と構造的暴力の不在を「積極的平和」と呼ぶ。彼の主著の書名は「平和的手段による平和」(Galtung1996)であり、平和の実現(直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力の削減)は平和的手段(非暴力的手段)によってなされるべきだと示唆するものである。直接的暴力(軍事介入)という手段で構造的暴力(独裁政治)を除去しようとするならば、新たな犠牲(誤爆による市民の殺傷など)が生じるに違いない。

 公害・環境問題は、構造的暴力の典型的な事例を提供する。水俣病でいえば、食品衛生法の運用の仕方(魚の汚染がわかっても、摂食が禁止されなかった)、水俣病の認定基準(改悪によって多くの被害者が切り捨てられた)、不十分な疫学調査、被害が生物的弱者(子どもなど)と社会的弱者(低所得層、零細漁民など)に集中したこと、などが構造的暴力であり、背景にある経済開発優先の思想(開発主義)は文化的暴力であろう(戸田,1994;戸田,2005)。じん肺対策や石綿対策の遅れも構造的暴力である。地球温暖化問題では、主たる原因は米国や日本のような浪費文明であるが、真っ先に被害を受けるのは、一人当たり資源消費の少ない低地国(バングラデシュなど)や島嶼国(ツバル、バヌアツなど)である。

 

4.大衆消費社会と南北格差

 

20世紀初頭に成立した「アメリカ的生活様式」は、「自動車の大衆化」(クルマ社会)に典型的に見られるように、「大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄」(見田,1996)を特徴としている。この「豊かな社会」は、主として欧米と日本に成立しており、空間的な普遍性がなく(米国人や日本人のような浪費生活を地球全体に普及させようとすると「数個の地球が必要になる」)、時間的な普遍性がない(資源浪費を22世紀まで続けることは不可能である)。1人当たりの資源消費には大きな南北格差がある(戸田,2003;アースデイ日本編,1994)。地球の「キャリング・キャパシティ」(地球上の資源で何人を養えるか)は、中国式生活様式(中国人の平均消費量)では79億人であるが、米国式生活様式では12億人にすぎない(ChambersSimmons and Wackernagel20002005166)。

1人当たりの資源消費の格差をみる指標としては、カナダで開発された「エコロジカル・フットプリント」が有益なもののひとつであろう(Wackernagel and Rees19962004ChambersSimmons and Wackernagel20002005)。直訳すると「生態学的足跡」であるが、資源消費を面積に換算したものである(注2)。1人あたりの資源消費が同じでも、人口密度が小さかったり、国土が広大だったりすれば、環境負荷が小さくなる。狭い国土で大量消費すれば、環境負荷はますます大きくなり、「生態学的赤字」となるが、日本、香港、シンガポールなどはその代表例である。米国は国土が広大であるが、それでもなお過剰消費が激しいので、「赤字」になる。先進国では、人口密度の低いフィンランドやニュージーランドが「黒字」である(ChambersSimmons and Wackernagel20002005157)。

「エコロジカル・フットプリント」にあらわれる過剰消費の是正は日本と欧米の共通課題であるが、特に日本について注目されるのは、食料やエネルギーの大量輸入である(穀物自給率28%、エネルギー自給率4%)。優良農地を持ち(耕作放棄地が多い)、森林被覆率が高いのに農産物、林産物の自給率が低いのは恥ずかしいことである。食料については指標として、輸入重量と輸送距離を積算した「フードマイレージ」が注目されている(戸田,2003;千葉監修,2005)。

1人当たりの環境負荷(注3)は、1人当たりの資源消費にほぼ対応している(Weizsacker19901994:5)。中国やインドが温室効果ガスの排出大国であるのは人口大国であるからで、今日と議定書を離脱した米国政府が、「中国やインドに削減義務がないのは不公平だ」とあげつらうのは適切であろうか。そうした批判は、自国の1人当たり排出量を削減する真剣な努力を行ってから言うべきである。

とはいえ、人口大国の環境負荷が大きいことは事実である。環境負荷の要因を考えるうえでは、まず米国の生物学者ポール・エーリックの有名な公式を念頭におくべきであろう。I=PAT(エーリックの公式)において、I(impact)は環境負荷、P(population)は人口、A(affluence)は豊かさ(1人当たり消費)、T(technology)は技術の質(消費量当たりの環境負荷)である。つまり、P、A、Tのいずれか1つ以上が大きければ環境負荷が大きくなり、P、A、Tは足し算ではなく、かけ算で効いてくる。Aは言うまでもないだろう。「米国人1人の環境負荷はバングラデシュ人50人に匹敵する」などと言われるのは、1人当たり消費(石油であれ、紙であれ、自動車であれ)を念頭においているからである。Tの例をあげると、電力消費量が同じであっても、原子力や石炭火力や大型ダムであれば環境負荷は大きいし、天然ガス火力や自然エネルギー(風力、ソーラー、バイオマスなど)であれば環境負荷は相対的に小さい。冷戦時代で見ると、米国はAが突出しており、技術革新の停滞するソ連・東欧では、Tに苦慮していたと言える。当時の西ドイツの自動車公害は台数の大きさが主要な要因であり、東ドイツでは1台あたりの排ガスが大きな要因であったと思われる。

「世界人口の2割を占める先進国が世界の資源消費の8割を占める」と言われる状況であり、先進国の「豊かな社会」は、発展途上国の「貧困」を代償とし、将来世代から資源を奪うことによって成り立っている。もちろん先進国にも貧困層がおり、発展途上国にも特権階級と中産階級がいる。米国でも中国でも、国内の貧富の格差は大きい。米国は、先進国のなかでも貧富の格差が大きいほうで、「米国のブラジル化」などと言われている。「北のなかに南があり、南のなかに北がある」という状況である。先進国の階級階層構造は、中産階級が肥大した「ダイアモンド型」であり、発展途上国は貧困層が多い「ピラミッド型」である。インド10億人のなかで数百万人の特権階級と「2億5000万人の中産階級」が欧米や日本の自動車資本によって「有望な市場」として狙われているが、7億人近い貧困層はなかば放置されている。世界社会を1国にたとえるならば、貧富の格差は、貧困層が多いという意味ではやはり「ピラミッド型」であるが、上位階層に所得や資産が集中するという意味では、国連開発計画(UNDP)の文書(『人間開発報告』1992年版)で有名になったように「ワイングラス型」とも言われる(アースデイ日本編,1994:8)。ワイングラス型というのは、世界人口を所得階層として5分割すると、上位5分の1(富裕層)が所得の82.7%を取得し、下位5分の1(貧困層)が1.4%を取得するので、グラフがワイングラスのような形状に見えるということである。

大衆消費社会の技術的基盤は石油文明である。20世紀初頭に石油文明を主導したのは、軍事部門では英米海軍(石炭から石油へ)であり、民事部門では、クルマ社会化(フォードによる自動車の大衆化およびゼネラルモーターズによるモデルチェンジ=耐久消費財の使い捨て化)であった。1940年代からの後期石油文明においては、核(原子力)が組み込まれる。「原子力は石油の缶詰」(槌田敦)という言葉に象徴されるように、原子力の利用(ウラン採掘から廃棄物処分まで)には大量の石油が必要であり、核は極論すれば「殺人と発電」が主な用途であったから、核文明が石油文明に取って代わるのではなく、核は石油文明の一部である。たとえば、米国オークリッジのウラン濃縮工場は、100万キロワット火力発電所二基によって支えられている(Caldicott199456)。石油文明が得意とするのは「大量生産、高速移動、大量破壊」であるが、これは核を組み込んだ後期石油文明にもよくあてはまる。石油文明は資源浪費的であるから、その「便利さ」を享受できる人は人類全体から見ると少数にとどまり、「共時的」(全人類への普及)にも「通時的」(将来世代への継続)にも普遍化が困難である。

ウラン鉱山は核の軍事利用と民事利用の共通の出発点である。歴史的にみると、核の民事利用は軍事利用の副産物にすぎない。広島原爆(ウラン原爆)をつくるためにウラン濃縮が必要であった。長崎原爆(プルトニウム原爆)をつくるために原子炉と再処理が必要であった。原子炉は後に発電と船舶推進(軍艦と民間船)に転用される。核兵器や核燃料をつくるためにウランを濃縮するときの副産物が劣化ウランである。核(兵器)開発の3点セット(ウラン濃縮工場、原子炉、再処理工場)をすべて持っているのは核兵器保有国と日本だけである(小出,2006)。日本は核燃料再処理とプルサーマル運転を国策とし、原爆5000発分のプルトニウム(大半は原子炉級)をためこんでいる。高速増殖炉(常陽ともんじゅ)によって核兵器級プルトニウムが900kg作り出された(中西編,2006176)。安倍晋三首相の周辺は、核兵器保有に前向きのようだ。原爆投下の目的はソ連威嚇と人体実験であったと見られるが(木村,2006)、日本の右派は、原爆を浴びた日本には核武装の権利があると主張する。

広島・長崎の「二重被爆」はドキュメンタリー映画(2006年)にもなったが、長崎原爆と原発被曝労働の「二重ひばく」の例もあるという(肥田,2004194)。

米国のイラク問題やロシアのチェチェン問題に典型的に見られるような「核大国の暴走」の背景にその特権意識があることは言うまでもないだろう(森住,2005;林・大富,2004)。

 

5.水俣病・カネミ油症と構造的暴力

 

 公害事件にみる構造的暴力の典型的な事例として、水俣病(熊本、鹿児島)とカネミ油症(福岡、長崎ほか西日本一帯)をとりあげてみよう。いずれも九州とかかわりが深い。

 JR水俣駅の駅前にはチッソ水俣工場の広大な敷地が広がっている。典型的な企業城下町である。水俣病についての簡潔な年表を提示してみよう(表1)。

 ある弁当屋さんがある日に出荷した100個の弁当のうち相当数がサルモネラ菌で汚染していることがわかった。しかし100個すべてが汚染しているかどうか不明なので回収しません、などと言うだろうか。水俣湾の相当数の魚介類が汚染していることがわかったのだから、漁獲を禁止すべきであった。「すべての魚介類が有毒化しているかどうか不明」だから禁止できないというのは詭弁である(宮澤,1997;戸田,2006a)。昭和52年判断条件は学問的に破綻していることが明らかであるが(津田,2004)、環境省は見直しを拒んでいる。

 

表1 水俣病年表

1908年 日本窒素肥料(1950年に新日本窒素肥料、1965年にチッソと改称)の水俣工場

1932年 水俣工場の水銀触媒を用いるアセトアルデヒド製造工程が稼働開始

1941年頃 水俣病患者の発生(推定)

1956年 水俣病患者の多発と公式発見

1957年 水俣湾の魚介類が原因食品とわかるが、病因物質は不明。厚生省は「すべての魚介類が有毒化しているかどうか不明」とする9月11日文書で食品衛生法4条適用を阻止

1959年 熊本大学の研究で有機水銀が病因物質と判明(7月)、厚生省食品衛生調査会も承認(11月)、しかし水質二法(工場排水規制)を適用せず。チッソの猫実験隠し(10月)と見舞金契約(12月)。

1960年 水俣病総合調査研究連絡協議会(学者と通産省・厚生省・水産庁・経企庁・熊本県)、水俣病研究懇談会(日本化学工業協会系、田宮委員会・複数の東大医教授)、東工大・清浦雷作(連絡協・懇談会)の根拠なき「アミン説」新聞報道

1963年 熊本大学がアセトアルデヒド製造設備の残渣からメチル水銀を検出

1965年 新潟水俣病の発見

1968年5月 水銀触媒を用いるアセトアルデヒド製造工程がチッソを最後に全国で終結

1968年9月 日本政府が水俣病を公害病と認める

1971年 環境庁の水俣病認定基準(大石武一長官)

1977年 環境庁の水俣病認定基準改悪(石原慎太郎長官)。昭和52年判断条件。

1995年 水俣病の政治決着(患者認定せず被害者に260万円)

2004年 水俣病関西訴訟最高裁判決で国の責任確定。水質二法で勝訴、食品衛生法で敗訴、認定に行政と司法の二重基準問題

2007年5月現在 環境省は昭和52年判断条件を維持。

資料 宮澤,1997などから作成

 

 カネミ油症事件は、1968年秋に福岡、長崎をはじめ西日本一帯で発生したというのが一般的な理解である。しかし、1968年以前にも少数例が発生した可能性を否定できない(表2)。カネミ倉庫北九州工場で製造した米糠油に、脱臭工程を効率化するために使われたPCBが混入したためである。1969年2月以降次々と民事訴訟が提起された。油症の症状は当初は皮膚症状が目立っていたが、全身症状であることがわかってきた。1万数千人の被害者が出たが、油症と認定されたのは約2000人にすぎない。1980年代には、原因物質としてPCBよりもむしろその不純物であるダイオキシン類が重要であることがわかった。ダイオキシン類の微量分析が困難であったので、血液中ダイオキシン濃度が診断基準に追加されたのはようやく2004年のことであった。新たに認定された被害者はわずかである。1968年春に飼料に添加されたダーク油(同じ会社の製品で、製造工程の一部も共通)による鶏の大量死事件が発生したが、このとき十分な調査をしていれば、カネミ油症の拡大はおさえられたはずである。飼料(農林省)と食品(厚生省)の縦割り行政の弊害でもあった。民事訴訟では高裁で原告が勝訴して国から損害賠償金が仮払いされた。しかし原告は最高裁で敗訴することを予想して裁判を取り下げた。そのため債務が発生し、1997年から国(農林省)は元原告に仮払金の返還請求を始めた。10年のあいだに仮払金は医療費や生活費に使われており、返済できないことを苦にして自殺した人もいると指摘されている。1979年に台湾油症事件も発生した。

高校の社会科の教科書には、四大公害(熊本と新潟の水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息)と地球環境問題のことは出ているが、食品公害や薬害についてはまったく言及がない。薬害への言及は1987年が最後である(全国薬害被害者団体連絡協議会,200020)。カネミ油症を事例に倫理的な含意を検討してみよう。「仮払金返還問題」は、「政府による合法的な公害病患者いじめ」であって、世界的にもほとんど例を見ないのではないだろうか。2006年の国会では教育基本法の改変や防衛庁の省昇格が優先され、油症被害者救済法案は先送りとなった。食中毒は「暴露有症者の全員救済」が原則で、水俣病やカネミ油症のように化学性食中毒であるにもかかわらず厳格な認定基準を用いて被害者を選別するのは、食品衛生法の趣旨に反する。油症の場合、特異症状偏重、皮膚症状偏重の診断基準の見直しが必要であろう。油症の原因企業は小企業であるので、認定患者への補償でさえ僅かだ。企業、行政、政治、学者、教育などのあり方が厳しく問われていると言える(カネミ油症被害者支援センター編,2006)。

 

表2 カネミ油症年表

1954年 鐘淵化学がPCBを製造開始

1961年 カネミ倉庫が米ぬか油(ライスオイル)を製造開始。脱臭装置の熱媒体にPCBを採用

1963年 北九州、飯塚などの患者に症状が出始める

1966年 従業員(脱臭係)に黒いブツブツ、目やになどの症状

1968年 1月改造工事→PCBの異常な減量、2月ダーク油事件、3月農林省回収指示、5月患者がカネミ油を保健所に、6月九大皮膚科に3歳女児受診その後受診増加、8月九大皮膚科は米ぬか油が原因食品と説明したが食中毒届出せず、9月学会発表、10月朝日新聞報道・九大ほか研究班発足・診断基準発表、11月油にPCB検出(病因物質)・五島一斉検診

1969年 被害者がカネミ倉庫、カネカ(旧鐘淵化学)に損害賠償提訴(福岡民事訴訟)

1970年 国と北九州市を被告に加え統一民事訴訟第1陣提訴

1973年 梅田玄勝医師らの調査によると最も早い発症は1961

1977年 福岡民事訴訟で福岡地裁がカネミ倉庫とカネカに賠償命令

1979年 台湾油症事件

1983年 油症研究班長倉恒九大教授が油症の主原因はPCDFの妥当性が高いと発表

1984年 第1陣提訴で福岡高裁が国に賠償命令

1985年 第3陣訴訟で福岡地裁小倉支部が国に賠償命令

1986年 第2陣訴訟で福岡高裁が国の責任を否定

1987年 最高裁で原告とカネカが和解、国への訴えを取り下げ(上告審敗訴を予想)

1996年 農林省が仮払金返還の督促状

2001年 坂口厚生労働大臣が、ダイオキシンが主因なので診断基準を見直したいと参議院で答弁

2004年 認定基準にPCDFを追加

2006年 日弁連が国とカネミ倉庫に被害者の人権救済勧告、救済策与党プロジェクトチーム発足

2007年 4月救済策合意(カネミに勧告、仮払金返還は大半免除)

  資料 朝日新聞2007年4月11日、下田ほか,2000から作成。

 

6.歴史認識

 

 21世紀の世界は「20世紀文明」を引き継いだが、20世紀文明は石油文明、工業文明、情報文明であり、その「豊かさ」を享受しているのは地球人口の約4分の1であり、浪費と貧困が共存する不平等な構造をもっている。この構造は、15世紀以来の約500年間で形成されてきたものである。歴史の流れを大まかに見ると、次のようになろう。

13世紀 モンゴル帝国による「世界史の誕生」(東洋史と西洋史の結合)

14世紀 ペスト流行、ヨーロッパ中世の終焉

15世紀 ルネサンス、大航海時代、ヨーロッパによる新大陸の征服

16世紀 ヨーロッパの膨張、資本主義世界経済の成立

17世紀 科学革命、ウエストファリア体制(国際政治)

18世紀 産業革命

19世紀 欧米文明による世界の分割支配

20世紀 石油文明の成立(後期においては原子力が組み込まれる)、大衆消費社会の成立、世界戦争と「戦争の工業化」、地球環境危機

21世紀 近代世界システムの矛盾の激化

 高校の世界史では19世紀末から20世紀前半までが「帝国主義の時代」とされるが、この見方は適切であろうか? ラス・カサス神父の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(1552年)などに見られるように、ヨーロッパ文明の膨張の500年は、当初から直接的暴力(大量殺戮、奴隷化など)、構造的暴力(資源収奪、環境破壊、文化破壊、差別など)、文化的暴力(人種主義、オリエンタリズムなど)に満ちているが、帝国主義が継続しているのではないだろうか。カナダの政治学者レオ・パニッチの所説をふまえて渡辺雅男は近代500年の帝国主義(領土支配を通じた公式帝国と自由貿易を通じた非公式帝国の両者を包含する)を次の三段階に区分するが、こちらのほうが、リアリティがあるように思われる(Panitch and Gindin20052005116)。

重商主義的帝国主義 スペイン・ポルトガルの覇権

産業主義的帝国主義 英国の覇権

金融主義的帝国主義 米国の覇権

 21世紀のブッシュ政権時代になると、ネオコン論者などで「帝国」という言葉を肯定的に使う人もあらわれるようになった。19世紀以来、米国にとっては公式帝国(フィリピン、キューバ)よりも非公式帝国(ラテンアメリカの裏庭化)のほうが中心的な戦略であり、1970年代以降、特にソ連崩壊以降は、「米国を盟主とする米欧日の集合的帝国主義」(渡辺治・後藤道夫編,2003Amin2003)の様相を強めている(注4)。1970年頃を境に、西側世界は「ケインズ主義と社会民主主義の時代」から「新自由主義の時代」に移行してきた。新自由主義(市場原理、規制緩和、民営化、勝ち組と負け組の分極化)を主導したのは、ピノチェット(チリ)、サッチャー(英)、レーガン(米)、中曽根(日)であった。新自由主義のもとで、グローバル資本主義は「貧富の格差、環境破壊、戦争」という矛盾を激化させている。米国の「軍事的ケインズ主義」(高額軍事予算の恒常化)は戦後60年を通じて変わらないが、新たに「戦争の民営化」(民間軍事会社の活躍、兵站や高度兵器管理の外注など)が加わってきた。大統領選挙の資金に典型的に見られるように、米国のデモクラシー(ブルジョワ民主主義)は、プルトクラシーへ(金で買える民主主義)の様相を強めている(Palast20032004)。他方、旧ソ連では、デモクラシー(プロレタリア民主主義)がほとんど実現しないままにオートクラシー(権威主義的社会主義)の様相が強まり、崩壊に至った。

 地球温暖化などにかかわる環境政策も、現在の南北格差と歴史認識を組み込んだものでなければ、環境保全と公正・正義を統合(環境正義=environmental justice)することはできないであろう。宇沢弘文の「比例的炭素税」構想(宇沢,1995)は、1人当たり国民所得に比例した税率を適用しようというもので、炭酸ガス排出トンあたりの課税が、日本は190ドルであるのに対して、インドネシアは4ドルになる。これは経済の豊かさに応じて負担を大きくして「共時的正義」を実現するものである。碓井敏正は、これに「通時的正義」の要件を満たす要素を追加すべきだと指摘する(碓井,2005)。「比例的炭素税をベースとしながら、歴史的責任をもうひとつの変数として加味した新たな公式を考案する」ことであり、「歴史的に産業化を早く遂げた先進諸国は、それぞれの近代化の時期に応じて、現在の国民所得の比例部分に上乗せした税率を課す」というものである。京都議定書で発展途上国が2012年まで排出削減義務がないのは、先進国の歴史的責任を考慮したからである。ただし、産業革命の母国である英国の税率が1世紀遅れて産業革命を行った米国やドイツより相当高いというのも必ずしも適切でないので、調整は必要であろう。

 あるいは、環境NGOの「地球の友(FOE)」の「環境空間」方式で言うように、地球環境が安定するために受け入れ可能な炭酸ガスの総量(推定値)を地球人口で割って「個人割り当て量」を出し、各国の人口に応じて配分するという現時点での「完全平等主義」のやり方もある。この方式では、先進国は京都議定書のような数%どころではなく、8割以上の大幅削減が求められる(ChambersSimmons and Wackernagel2000200539;碓井,2004197;碓井,2005)。ただし、人口増加率が大きい国が極端に有利になってもいけないので、基準年(幅があってもよい)を設けるべきであろう。なお、「先進国の大幅削減は無理だ」という言説もまた、不平等社会の既得権を正当化するものであるから、文化的暴力である。

 

7.もうひとつのグローバル化

 

 グローバル資本主義がもたらす貧富の格差、環境破壊、戦争を克服しようとする先進国と発展途上国の社会運動(労働運動、農民運動、環境運動、女性運動、人権運動など)が、「世界社会フォーラム」(Fisher and Ponniah eds 20032003)などを結集軸として広がりつつある。こうした運動をマスコミは「反グローバル運動」と呼ぶが、これは必ずしも適切でないとして、運動の側は「もうひとつのグローバル化」とか、「グローバル正義運動」(George20032004)と呼んでいる。有害廃棄物やウラン鉱山の被害が黒人や先住民に集中する環境不正義を正そうとすることから始まった「環境正義運動」(Dowie19951998)も、「グローバル正義運動」の一環とみてよいだろう。

 グローバル化には様々な次元がある。マスコミなどで「グローバル化」という言葉が使われるときは、「新自由主義的な経済のグローバル化」をさすことが多い。経済成長と開発主義に固執する「経済グローバル化」を越えて、人類の生存基盤の持続性を基本とする国際連帯が必要であろう(郭・戸崎・横山編,2005)。資源利用効率の向上も不可欠である(Weizsacker et al. 19951998)。米国の核兵器への固執や、日本のプルトニウム経済への執着(核燃料再処理工場、軽水炉のプルサーマル運転)は、安全性、経済性の確保に逆行し、核拡散を助長している(大庭,2005)。米国などは、「経済のグローバル化」には熱心であるが、「人権のグローバル化」には消極的だと指摘される(上村,2001)。子どもの権利条約の未批准、死刑制度の存置などをさしている。ブッシュ政権の京都議定書離脱や核軍縮への消極姿勢は、「政治のグローバル化」や「環境政策のグローバル化」からの逃避であろう。「文化のグローバル化」というと、「マクドナルド」や「英語支配」が思い浮かぶかもしれない。英語を国際語とすることは、英語圏に有利となるので不平等を強める。平等と共通理解を両立させるには、英語よりもエスペラントのほうが適切である。

 

8.自然における人間の位置

 

 環境学と平和学において人間を理解するには、人間と近縁の生物の社会関係および自然資源利用を対比することが重要である。「自然における人類の位置」を考えるうえで、ヒトと類人猿の比較は重要である。人類はチンパンジー的な方向からボノボ的な方向へ転換すべきだと思う。私の『環境学と平和学』(戸田,2003)にも「暴力の比較霊長類学と社会科学」という節がもうけてあるが、最近の拙稿(出典表記の方式は変更した)を以下に転載する。なお、ヒトが65億人であるのに対して、ボノボは数万人である。

 

霊長類と暴力

 

戦争や殺人や強姦は人間の「本能」に根ざしているのだろうか? 

 昆虫学者エドワード・ウィルソンは、人間の生得的な攻撃性を示唆して、「戦争という最も高度に組織された形態をとる攻撃技術は、単に攻撃行動の一例にすぎないとはいえ、歴史の全過程を通じて、狩猟採集民のバンドから産業国家に至るありとあらゆる社会に付きまとってきた。」と述べている(Wilson19781980)。考古学者佐原真(故人)は、採集狩猟社会の戦争は例外的であり、戦争は農耕社会に起源があるとみておおむね間違いない、日本の戦争は弥生時代に始まったと思われる、と述べている(田中・佐原,1993、また松木,2001も参照)。

 人類の祖先が、チンパンジーとボノボ(旧称ピグミーチンパンジー)の共通祖先と分岐したのは、約700万年前である。農耕は1万年ほど前に始まったので、佐原のとらえ方では、人類史の99%は「戦争のない時代」であった。

 人間の暴力の生物的基盤と社会的基盤を考える際に、現存の近縁の動物との比較は有益であろう(注5)。比較の対象となるのは、ヒト上科(類人猿と人)である。最近の分類学では、ヒト上科は、テナガザル科とヒト科(オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、ヒト)に分けられる。なお、霊長目は、まず原猿類と真猿類に分けられ、真猿類はオマキザル上科(ゴールデンライオンタマリンなどの新世界ザル)、オナガザル上科(ニホンザルなどの旧世界ザル)、ヒト上科に分けられる(古市,1999)。ヒト科という名称からも示唆されることだが、類人猿は「雄雌」「一頭、一匹」ではなく、「男女」「一人」とするのが適切であろう(松沢,2002)。

テナガザルは人類の祖先との分岐年代が古いので(約2000万年前)、それ以外の類人猿とヒトで比較してみよう。自然人類学者ランガムは、戦争(成人男性集団同士の殺し合い)、殺人、強姦、子殺しを指標に比較している。4つともするのはヒトである。チンパンジーでは戦争、殺人、子殺しがみられる。ゴリラでは子殺しがあり、オランウータンでは強姦が観察されている。4つともしないのはボノボである(Wrangham and Peterson19961998)。遺伝的に最も近縁な(分岐年代が最も新しい)チンパンジーとボノボが暴力と非暴力の両極端に分かれていることは、暴力が自然(遺伝)よりもむしろ文化(行動の伝統)に根ざしていることを示唆するであろう(戸田,2003)。

霊長類学者フランス・ドゥ・ヴァールの言葉を引用しよう。「ボノボの知名度が低い背景には、もっと重大な理由がある。それは、人間に対する根強い先入観からボノボがはみだしていることだ。もしボノボが仲間どうしで殺し合う類人猿だったら、すぐにその存在は認知されただろう。最大の障壁は、彼らの平和主義なのである。私はときどき想像してみる。もしボノボのほうが先に知られていて、チンパンジーがそのあとに発見されたなら、あるいはチンパンジーがまったく知られないままだったら。人類の進化をめぐる議論は、暴力や戦争、男性支配を軸に展開するのではなく、性衝動や共感、思いやり、協力が中心だったのではないか。その結果私たちの知的世界は、まるで別の風景になっていたにちがいない。」(De Waal20052005)。

ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンは男尊女卑的であり、ボノボはジェンダー平等的である。紛争の和解などに性行動(男女、男同士、女同士)を多用するボノボは、「好色な類人猿」とも呼ばれる。「ボノボはまた、少なくとも西洋の基準からすると、目を瞠るほど乱交的である。」(Blum19972000)。ボノボの写真集には、心を洗われる美しい写真がたくさん掲載されている(De Waal and Lanting19972000)。ジェンダー平等のボノボで暴力が少ないことは、カナダのヘアー・インディアンで強姦がなく男女の平等度が高いことを想起させる(原,1989)。

最近の某大統領や某首相に象徴されるような人類の傲慢さは、目に余る。私たちは、「進化の隣人」であるボノボの非暴力と協力の精神に、大いに学ぶべきであろう(戸田,2006d)。人類700万年の歴史のなかで環境破壊の歴史はせいぜい3万年程度(最初の環境破壊は狩猟によるいくつかの大型野生鳥獣の絶滅)、戦争の歴史はせいぜい1万年程度であるから、戦争も環境破壊も「人間の本性に根ざしたもの」ではない。「不平等と戦争と環境破壊の文化」を「平等と平和と環境共生の文化」に転換することは原理的に可能であると思われる。

 

9.環境学と平和学の連携

 

「戦争と環境破壊の世紀」を克服するために必要な「環境学(environmental studies)と平和学(peace studies)の連携」の必要性は、次のようなことによって示唆される。

@戦争は最大の環境破壊(環境汚染、自然破壊)である。原爆投下、ベトナム枯葉作戦、絨毯爆撃、劣化ウラン兵器などがその典型である。

A先進国の大量浪費社会、南北格差という構造的暴力を維持するために軍事介入がなされる。

B先進国の大企業の投資や利益を守るために軍事介入がなされる。

C軍事占領によって資源の不公平分配がなされる。イスラエルとパレスチナの水問題はその典型である。

D乏しくなっていく資源をめぐる武力紛争が発展途上国間や内戦という形でも起こりうる。

戦争がないときでも軍事基地、車両、航空機、艦船などが日常的に環境汚染をもたらす。E軍用車両、航空機、艦船は燃費が悪いので資源浪費を加速する。

F有害物質規制などで軍事利用と民事利用の二重基準がある。発癌物質プロピレンオキサイドを例にとれば、民事利用では排出を厳しく規制されるが、燃料気化爆弾としての大量排出は許容される。劣化ウランなども同様である。

G軍事利用の民事転用(原子力潜水艦から原発へなど)や民事利用の軍事転用(枯葉作戦での農薬利用など)が大きな役割を果たしている。ビキニ被爆者を「人柱」として原発技術は導入された(日本政府の対米交渉の姿勢は、ビキニ被災者には補償金でなく見舞金でよい、米国の今後の核実験にも反対しない、その代わりに原発技術を恵んでほしい、というものであった)。

H科学者、技術者、研究資金などが軍事に動員され、環境や福祉への資源配分が少なくなる。

 

10.おわりに

 

 グローバル資本主義がもたらす貧富の格差、環境破壊、戦争を克服するためには、ガルトゥング平和学の暴力と平和の概念、コロンブス以来の500年についての歴史認識をふまえて、グローバルな視野での環境学と平和学の連携、環境運動と平和運動の連携が、必要条件のひとつであろう。また、資本の論理、国家の論理、科学技術の論理を批判的に検証することが不可欠である(三浦,2006)。「環境学と平和学」(2003年の同題の著書はその中間報告)は私のライフワークであるが、今後とも考察を続けていきたい。

 

注1 石油生産量が釣り鐘状の曲線を描いて推移し、ピークを過ぎると採掘が困難になって費用もかさむという理論は、1956年にシェル石油の地質学者M・キング・ハバートによって提唱された。米国が1970年頃に石油ピークを迎えるという彼の予測は適中した。

 

注2 エコロジカル・フットプリント(以下EFと略す)の解説としては、「サステイナブル・ライフデザイン研究所」のホームページ(http://www.sustaina.com/zoushi/)などがわかりやすい。EFでは、あるエリア(注:たとえば日本)の経済活動の規模を、「土地面積(ヘクタール)」に換算する。土地面積とは、食糧のための農牧地・海、木材・紙供給や炭酸ガス(発電所や自動車などから排出される)を吸収するための森林などであり、エリア外からの輸入物の生産に要する面積も含まれる。その面積をエリア内人口で割って、1人あたりのEF(ha/人)を指標化する。2000年度の日本のEFは5.94ha/人であり、世界合計(実際に供給可能な面積)では2.18ha/人になる。世界中のひとびとが日本人のような暮らしをはじめたら、地球が約2.7個(5.94÷2.18)必要になる。米国のEFは8.84ha/人であり、世界中のひとびとが米国人のような暮らしをはじめたら、地球が約4.1個(8.84÷2.18)必要になる。また、世界自然保護基金(WWF)の『生きている地球レポート』2004年版によると、EFにもとづく試算で、日本並みでは2.4個の地球が、米国並みでは5.3個の地球が必要になるという(ChambersSimmons and Wackernagel20002005167)。なお、「世界中が平均的米国人並みの消費をしたときに何個の地球が必要か?」という設問で、4個だったり5個だったり数字は様々だが、資源統計の年度や計算の前提となる仮定などで数字は違うだろう。細かい数字にこだわらず、数倍(4倍前後)とみておけばよい。

 

注3 環境先進国と言われるドイツでさえ、1992年の時点で、人口当たりのエネルギー消費量、温室効果ガス排出量、オゾン層破壊フロン排出量、道路延長、貨物輸送量、乗用車による人の輸送量、乗用車台数、アルミニウム消費量、セメント消費量、鉄鋼消費量、生活系廃棄物排出量、有害廃棄物排出量で比べると、アルゼンチン、エジプト、フィリピンの約10倍になる。したがって、いわゆる最貧国と比べると、比率はさらに大きくなる。

 

注4 ブッシュ政権の単独行動主義(京都議定書離脱、国際刑事裁判所設立条約の署名撤回、アフガニスタン侵攻、イラク侵攻、新型の「使える」小型核兵器開発、先制攻撃ないし予防戦争を認めるブッシュ・ドクトリン、など)のおかげで、30年前の左翼用語の亡霊のような「アメリカ帝国」「アメリカ帝国主義」と言った言葉が復活したように感じられる。サミール・アミン、レオ・パニッチのようなマルクス主義者や、ノーム・チョムスキーのようなアナーキストの言説が注目されている。

 

注5 私たちに最も近縁なのはもちろん絶滅したネアンデルタール人であるが、私たちの先祖が彼らに対してジェノサイドを行った可能性も完全には否定できないし、彼らについての誤解(「人間の姿をした獣だ」「劣等人種だ」といったたぐいの誤解)の伝承が人種差別・民族差別の古層にある可能性もある。

 

 

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WallersteinImmanuel1995Historical Capitalism with Capitalist CivilizationVerso.(=1997,川北稔訳『新版 史的システムとしての資本主義』岩波書店。)

WeizsackerErnst 1990Erdpolitik(=1994,宮本憲一ほか監訳『地球環境政策』有斐閣。)

WeizsackerErnst et al. 1995Faktor Vier(=1998,佐々木建訳『ファクター4』 省エネルギーセンター。)

WernerKlaus & Hans Weiss2003Das Neue Schwarzbuch MarkenfirmenFranz Deuticke Verlagsgesellschaft.(=2005,下川真一訳『世界ブランド企業黒書 人と地球を食い物にする多国籍企業』明石書店。)

WernerDavid and David Sanders1997The Politics of Primary Health Care and Child Survival.(=1998,池住義憲・若井晋監訳『いのち・開発・NGO』新評論。)

WilliamsJessica200450 Facts that should Change the WorldIcon Books.(=2005,酒井泰介訳『世界を見る目が変わる50の事実』草思社。)

WilsonEdward1978On Human NatureHarvard University Press.(=1980,岸由二訳『人間の本性について』思索社。)

WranghamRichard and Dale Peterson1996Demonic MalesApes and the Origins of Human ViolenceMariner Books.(=1998,山下篤子訳『男の凶暴性はどこからきたか』、三田出版会。)

 

(本稿は、戸田清「環境学と平和学」編輯委員會編『井上義彦教授退官記念論集 東西文化會通』台湾学生書局有限公司、2006年をベースに加筆したものを長崎平和研究講座(20071013日)の配布資料とし、さらに若干の加筆を行ったものである。)

 

 

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