水俣病事件における食品衛生法と憲法
初出 戸田清「水俣病事件における食品衛生法と憲法」『長崎大学総合環境研究』(長崎大学環境科学部)第8巻第1号23〜38頁(2006年2月)に加筆修正
The Food Sanitation Law and the Constitution in the Minamata Disease Case
TODA Kiyosi
Abstract
On October 15,2004 the Supreme Court ruling was issued in the Minamata Disease Kansai Lawsuit. It can be said
to be a victory for the plaintiffs generally.The court approved the plaintiffs’
assertion that the government had been responsible for regulation of wastewater and for relief
of the victim(certification of
pollution-related patients who were not yet identified at the time).However,a problem still remains because the defendant’s(the national government’s)claim concerning regulation of food(fish and seafood) was acknowledged by the court.
There is much doubt regarding the decision of the national government and the Kumamoto Prefectural government not to apply
the food sanitation law to the Minamata Disease case in 1957.It is
considered one of the reasons for the
Minamata Disease having spread widely.
Application of the food sanitation law became controversial as well as in the case of the Kanemi Rice Oil (PCBs and PCDFs) food poisoning. If the food sanitation law was
disregarded in those cases,we can say that the Constitution, on which the law was founded,was also disregarded.The Minamata disease has already
been
accepted in
society as an environmental
pollution problem,but viewing the Minamata disease as food poisoning
should be established in the world of medicine as well as among common citizens.
キーワード
Constitution ,Food Sanitation Law,government ,Minamata Disease,Supreme
Court ruling
1.はじめに
水俣病関西訴訟の最高裁判決(『判例時報』1876号3頁)が2004年に出たことで、認定基準をめぐる「環境省の抵抗」はあるものの、水俣病(1956年公式発見)の問題は解決に向かっていると考えている人が多い。1995年の「政治決着」(豊田,1996;宮澤,1999;富樫,1999)で救済対象者を水俣病患者であると認めなかったことや、国の法的責任を認めなかったことが、「ニセ患者」中傷記事(無署名, 1995)を招いたことに象徴される諸問題を抱えているわけであるから、最高裁判決まで戦い抜いたことは、まさに正解であった。
しかし食品衛生法の論点が残され、しかも解決(注1)の見通しが立たないことについては、日本社会において軽視されることが少なくないように思われる。たとえば、判決後の状況を描いた鎌田慧のわかりやすいルポルタージュがあるが、食品衛生法への言及はない(鎌田,2004a;同, 2004b)。
水俣病事件についての法学者の著書・論文には食品衛生法への言及がいくつかある(富樫,1995:36,40;淡路,2005など)。倫理学の領域では、丸山徳次が、「1957年9月に厚生省が食品衛生法の適用を拒否したことの重大性を、なぜ大阪高裁判決が取りあげなかったのか、理解に苦しむところです。」と述べている(丸山,2004:63)。社会学では、舩橋晴俊が食品衛生法の適用問題について詳細な検討を行っている(舩橋,2000:147~151)。食品衛生法の論点について、若干の検討を行いたい。
2.最高裁判決
2004年10月15日、水俣病関西訴訟の最高裁判決が出た。基本的には原告勝訴である。水俣病事件では多くの判例があるが、おそらく最後の最高裁判決であろう(注2)。2004年10月30日放映のNHK・ETV特集「水俣病 問い直された行政の責任」が論点をよく整理していた。ゲストは阿部泰隆(神戸大学法学部、行政法・環境法)と橋本道夫(元厚生省公害課長、医師)であった。行政の責任については、3つの争点があったと思われる。排水規制、食品規制、被害者救済である。
排水規制と被害者救済では原告の主張が認められた。すなわち、排水規制については1960年以降の国の怠慢が指摘され、被害者については、未認定患者である原告の大半が水俣病に認定された。ところが、食品規制については国が勝った。1957年に食品衛生法4条(有害食品の禁止)を発動すべきだったという原告の主張が退けられ、行政指導だけでよかったという国の主張が採用されたのである。1958年、59年に関西に移住した原告については、国、県の賠償責任が認められなかった(田中,2004)。3つの争点についての判断は、2001年の大阪高裁判決(『判例時報』1761号3~55頁)を追認するものだ。
3.排水規制と認定基準
排水規制について国は責任を認めたが、被害者救済について国は敗北を認めずに抵抗している。
当初の認定基準(1959~1970)は重症患者を念頭においた「狭い」ものであったが、1971年認定要件(当時の環境庁長官は大石武一、医師)では、汚染地域に住んで魚介類を食べ、知覚障害などのうち「いずれかの症状」があれば水俣病に認定するとしている。そのため認定患者数は大きく増えた。
大量棄却によって多くの未認定患者を作り出したのは、「症候の組み合わせ」を求める1977年判断条件(当時の環境庁長官は石原慎太郎、小説家)である(注3)。背景には補償金支払額「急増」への「不安」があったと多くの人は推察している。今回の最高裁判決で多くの未認定患者が司法によって認定されたことは1977年判断条件への批判を含意しているが、直接判断条件を批判する文章がないために、国は1977年判断条件を見直すつもりはないと主張する。しかし、判決が国側の医学証人である井形昭弘、衛藤光明らの証言を全くといっていいほど採用せず、原告側の浴野成生、三浦洋らの成果やデータを採用したことは(田中,2004)、1977年判断条件に疑問を投げかけるものだ。
疫学的にみて、1977年(昭和52年)判断条件が破綻していることは明らかである(津田・井形 ,2001;津田,2004a;チッソ水俣病関西訴訟を支える会,2004)。水俣地区周辺では、四肢末端の感覚障害の相対危険度(対照群を1としたときにその何倍か)が非汚染地区(対照地区)の100倍前後である。大気汚染の呼吸器疾患では2倍程度である。喫煙関連疾患でも、非喫煙者に対して5倍~10倍前後である(戸田,1988)。100倍が否定された事例はない。交絡要因(曝露と疾病の関連をゆがめる第三の要因)もないはずである。
日本精神神経学会は1998年以来、1977年判断条件が「科学的に誤り」であると指摘し続けている(日本精神神経学会・研究と人権問題委員会,1998;同,1999;同,2003)。これに対する医学者や環境庁(2001年以降は環境省)からのまともな反論はない(注4)。
行政の認定と司法の認定の「二重基準」が大きな社会問題になっている。2004年12月20日の朝日新聞社説「環境省は基準を見直せ」はわかりやすい解説をしている。国が「負けた争点」についてさえ負けを認めずに抵抗しているのだから、「勝った争点」について反省する可能性は少ないのではないだろうか。なお食品衛生法の適用が見送られた経緯については、宮澤信雄の2004年6月の文章が丁寧でわかりやすい(宮澤,2004a)。
4.食品衛生法
事件史の流れのなかでは画期的な判決であるが、「国が勝った」食品衛生法の争点(大阪高裁判決は大阪地裁判決の判断を大筋で変更せず、最高裁判決はそれを是認した)に限っては、今回の判決は不当判決と言わざるをえない。
大阪地裁判決は、1957年時点についても、1959年時点についても、食品衛生法4条(有毒食品の禁止)、同22条(飲食店等の規制)、同17条(食中毒の調査)のすべてについて適用の必要性を否定した。また、自家摂食は規制の対象外であると述べている(『判例時報』1506号73頁以下)。大阪高裁判決は、1959年11月時点について、4条の有毒食品に該当すると解釈し、そのことを告示したほうが望ましかったとはいえるとしながら、行政指導にとどまったことを是認している(『判例時報』1761号23頁以下)。最高裁判決は、遅くとも1957年までに食品衛生法により漁獲、摂取を禁じるべきであったとの原告側付帯上告に対して、原審(高裁判決)の判断は是認できるとしている(『判例時報』1876号6頁、11頁)。
水俣病公式発見は1956年、有機水銀中毒とわかったのは1959年のことである。1957年の段階では病因物質は不明であったが、原因食品が水俣湾の魚介類であることは、伊藤蓮雄水俣保健所長のネコ実験でも確認された。
前記のETV特集でも示されたように、1956年の熊本県の食品衛生法第4条(2003年以降の第6条にあたる)適用事例を見ると、ネズミチフス菌(サルモネラ菌)やテトロドトキシン(ふぐ毒)のように病因物質の明らかなものもあるが、病因物質が「不明」のものも少なくない。病因物質が不明でも、原因食品が明らかであれば実際に規制している。後述の静岡県の例もある。
1957年7月に熊本県公衆衛生課は、4条適用を決意する。7月24日の熊本県奇病対策連絡会は食品衛生法の適用(県知事告示)を決めた。この会議で蟻田重雄熊本県衛生部長も食品衛生法4条2号適用を了承している(宮澤,2004a)。しかも、厚生省の尾村偉久環境衛生部長と熊本県の守住憲明公衆衛生課長のあいだでも食品衛生法の適用について合意していた(宮澤,2004a)。通例はそれで決着である。しかし、それでも同連絡会の結論は棚上げにされ、食品衛生法適用の県知事告示は出されなかった。
すなわち、このとき水上長吉副知事が「厚生省に聞け」と横やりを入れ、1957年8月16日に熊本県衛生部長名で厚生省公衆衛生局長あてに照会状が出された(宮澤,1997:158)。県の機関委任事務であるから、国の指導、監督に従うことになっているので、この件は判断に迷う事例として照会したのであろう。これに対して、困惑ぶりを示唆する1ヶ月近い異例の遅れを経て、厚生省公衆衛生局長は1957年9月11日の回答で、
1.水俣湾特定地域の魚介類を摂食することは、原因不明の中枢性神経疾患を発生するおそれがあるので、今後とも摂食されないよう指導されたい。
2.然し、水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、該特定地域にて漁獲された魚介類のすべてに対し食品衛生法第4条第2号を適用することは出来ないものと考える
と回答した(水俣病研究会編,1996:670;宮澤, 1997:160;深井,1999:140~146;橋本編,2000:62,190)。しかも回答は照会した県衛生部長あてではなく、県知事あてであった(水俣病研究会編, 1996:670;宮澤,2004a)。回答の内容は詭弁である。阿部泰隆が言うように、100個のまんじゅうに毒まんじゅうが混じっているとわかれば、「すべて」が毒でなくても、回収するだろう(NHK 2004a)。4条を適用せず行政指導にとどまったため被害は拡大した。
厚生省と熊本県の担当者が合意したことが上記のように省と県の上層部の意向で正当な理由なく妨げられたとしたら、重大な問題である(これは、1959年11月の厚生省食品衛生調査会の答申がやはり棚上げされ、1968年9月の「政府見解」でようやく水俣病が有機水銀に汚染された魚介類の摂取による公害病であると認めたことを想起させる)。
大阪地裁判決は、1957年時点については原因物質(正しい用語で言うと「病因物質」)が不明であり、個々の魚介類の有害性を判断できないので4条を適用できない、1959年時点については、有機水銀説が検証不十分なので4条該当性を判断できないとしていた(『判例時報』1506号74頁)。それを2001年の大阪高裁判決、2004年の最高裁判決が基本的に追認したのである。なお1957年回答の論理を全面肯定しているのは、1992年の東京地裁判決である(大塚,1996:84)。
さらに、宮澤信雄が指摘するように、1968年9月26日の「政府見解」に「水俣病患者の発生は昭和35年を最後として終息しているが、これは、昭和32年に水俣湾産の魚介類の摂食が禁止されたことや工場の廃水処理施設が昭和35年以降整備されたことによるものと考えられる」という一文があることが注目される(宮澤,2004a;『朝日新聞』1968年9月27日朝刊)。
1960年(昭和35年)を最後に患者の発生が終息というのは誤認である。1960年以降の廃水処理施設もあまり役に立たなかった。しかし、それ以上に食品衛生法との関連で重要なのは、「1957年(昭和32年)に摂食禁止」という記述である。実際は前述のように、食品衛生法4条を適用して「摂食を禁止」したのではなく、「危ないから注意しなさい」と行政指導したのであった。それで、人々の摂食量は減ったが、不安を抱きながら食べ続けた。魚介類の摂食量が減ったので有機水銀の取り込み量も減り、1年半ほど新規患者がなく、「終息」の錯覚を与えたのである。その後、閾値を超えたのか、再び患者の発生が始まっている。
1968年に政府が「1957年に摂食が禁止された」と勘違いしたのは(意図的に嘘をついた可能性もあるが、推定無罪原則により、勘違いとみなしておく)、宮澤が示唆するように、「この見解を作成した段階での政府の考え方、あるべき水俣病対策の考え方を示したもの」であり、「水俣病の原因が魚介類とわかった昭和32年に、その摂食が禁止されるべきであり、当然禁止されたはずであり、それによって水俣病が終息に向かったものと、政府は考えた」のであろう(宮澤,2004a)。「語るに落ちた」というべきである。
厚生省監修の年表で「水俣病事件このころより社会的にクローズアップされる」が、公式発見の1956年でも、有機水銀説確認の1959年でもなく、食品衛生法をめぐる攻防の1957年8月の日付になっていることも、関心のありかを示していて示唆的である(厚生省生活衛生局監修,1996:555)。
食品衛生法現行6条(当時の4条に相当)の内容は次の通りである(総務省法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxsearch.cgi)
食品衛生法第6条 次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
1 腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの。ただし、一般に人の健康を損なうおそれがなく飲食に適すると認められているものは、この限りでない。
2 有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは付着し、又はこれらの疑いがあるもの。ただし、人の健康を損なうおそれがない場合として厚生労働大臣が定める場合においては、この限りでない。
3 病原微生物により汚染され、又はその疑いがあり、人の健康を損なうおそれがあるもの。
4 不潔、異物の混入又は添加その他の事由により、人の健康を損なうおそれがあるもの。
さて、熊本県公衆衛生課が4条適用を決意した1957年7月の時点では、食品衛生法の最終改正は1957年6月15日のものであった。このときの4条の条文は次の通りである(遠山ほか編,1957:602。同書の巻末に当時の食品衛生法の全文がある)。
食品衛生法第4条 次に掲げる食品又は添加物は、これを販売し(不特定又は多数の者に授与する販売以外の場合を含む。以下同じ。)、又は販売の用に供するために、採取し、製造し、輸入し、加工し、使用し、調理し、貯蔵し、若しくは陳列してはならない。
1 腐敗し、若しくは変敗したもの又は未熟であるもの。但し、一般に人の健康を害う虞がなく飲食に適すると認められているものは、この限りでない。
2 有毒な、又は有害な物質が含まれ、又は附着しているもの。但し、人の健康を害う虞がない場合として厚生大臣が定める場合においては、この限りでない。
3 病原微生物により汚染され、又はその疑があり、人の健康を害う虞があるもの。
4 不潔、異物の混入又は添加その他の事由により、人の健康を害う虞があるもの。
この4条2号が「有毒な、又は有害な物質が含まれ、又は附着しているもの。但し、人の健康を害う虞がない場合として厚生大臣が定める場合においては、この限りでない。」から、「有毒な、若しくは有害な物質が含まれ、若しくは附着し、又はこれらの疑いがあるもの。但し、人の健康を害う虞がない場合として厚生大臣が定める場合においては、この限りでない。」に変更されたのは、1972年6月30日の食品衛生法改正によってである(大蔵省印刷局, 1972:125)。「疑いがあるもの」を追加したのは、結果的に過大規制だったと言われた場合に当局が責任を問われるのを避けるためであった(阿部 2002:374)。
なお、1947年12月24日の公布当時の食品衛生法の条文は、衆議院ホームページの「制定法律」で「第1回国会」の「法律第233号 食品衛生法」に掲載されている。
http://www.shugiin.go.jp/itdb_housei.nsf/html/houritsu/00119471224233.htm
制定当時の第4条の条文は、冒頭が「左に掲げる食品又は添加物は」となっており、「製造し」の次の「輸入し」(1953年の改正で追加)がないことを除いて、1957年当時の条文とまったく同じである(当時の法律は縦書きなので、「次に掲げる」ではなく「左に掲げる」となっている)。
食品衛生法4条(現在の6条)で「含有するもの」にとどまらず、「含有する疑いがあるもの」をも規制する「予防原則」(疑わしきは規制する)は、3号の病原微生物については1947年の制定当初からあったが、2号の化学物質については1972年に導入されたものである(注5)。字面だけ見ていると、1957年当時、化学物質については「予防原則」がなかったわけだから、「厳密な法解釈」として正当だと思う人がいるかもしれない。しかし、現実を見るとそうした理解は疑わしくなる。1957年以前の2つの事例をあげよう。
第1は、アサリの例である(注6)。終戦前後の食糧難の頃に、静岡県浜名湖のアサリがなぜか有毒化し(病因物質は不明)、それを自分たちで食べていた周辺住民から多数の死者が出た。1949年に静岡県は病因物質不明のまま食品衛生法4条を適用し、住民がアサリを食べないようにした。この対策により新規の患者や死亡者は発生しなくなった(津田, 2004a:50;宮澤,2004a)。熊本県は厚生省食品衛生課の示唆を受けて、1957年3月15日付で静岡県衛生部に経緯を照会している(水俣病研究会編, 1996:483;水俣病被害者・弁護団全国連絡会議, 1997:179;宮澤,2004a)。もちろん「すべて」のアサリが有毒化していることを静岡県が確認したわけではない。また「病因物質不明」というのは、細菌性(ブドウ球菌など)なのか、化学性(メタノールなど)なのか、自然毒(フグ毒など)なのか、わからないということである。
第2は、1955年の森永ヒ素ミルク事件である。これは早い時期にヒ素による化学性食中毒であることがわかった。回収されたのは「多く」のミルクが汚染していることがわかったからであって、「すべて」のミルクが汚染していることを確認したからではない(津田,2004a:62)。
「すべて」について確認せよということであれば、食品衛生法は緊急事態に対処できない。ここでいう「すべて」というのは「すべての魚種」を意味していたようだ(舩橋,2000:150)。水俣湾の魚の「すべてが有毒化している」ことを証明する「悉皆調査」は不可能であるし、その必要もない。「すべてが有毒化」しているかどうか不明でも「少なからぬものが有毒化」していることが明らかであれば、対処してきたことが、アサリやヒ素ミルク事件からも明らかである。
水俣病京都地裁判決でも「当該特定範囲の食品全体について一般的に有毒有害と認められるならば、右範囲に含まれる全ての食品が同条同号にいう有害食品に該当すると解すべきであって」と述べている(『判例時報』1476号46頁;大塚1996:85)。
1957年9月の厚生省局長通知は、法令解釈として、条文だけ眺めると「正当」に見えるとしても、静岡県の「前例」や予防原則の「論理」(緊急事態に現場でどう対応すべきか)に照らすと明らかにおかしい(もちろん「前例踏襲」がいつも正しいとは限らないが、この場合は前例が妥当なものである)。現場を考慮しない「机上の空論」であり、法解釈をゆがめるものであると言わざるをえない。2004年の最高裁判決がなぜこの食品衛生法解釈を結果的に追認しなければならないのだろうか。この場合、食品衛生法の適用を官僚の自由裁量にゆだねてよかったのか。薬害エイズ裁判厚生省ルート(2005年3月25日に二審判決でも一部有罪)でも問われていることであるが、緊急事態においては行政の裁量の余地が狭まるという「裁量権収縮の理論」(阿部,1988:187~190;宇賀,1997:156~162)も考慮すべきであろう(注7)。
さらに、1957年の厚生省の対応は、厚生省自身の1950年5月2日の通達における「危険性の範囲が当初明瞭になっていないような場合には、危険の考えられる範囲全部に対して包括的な処置を行っておいて、爾後調査の範囲が明確化するにつれ、不必要であった制限は順次解除し、食品の利用の禁停止を必要な部分のみに圧縮していくことが必要である」という指示に反するものである(舩橋,2000:150)。
水俣病について初めて国、県の賠償責任を認めた画期的と言われる第三次第一陣熊本地裁相良判決(1987年3月30日)では、「裁量権収縮の理論」をふまえて、1957年に食品衛生法4条を適用すべきだったとしている(『判例時報』1235号212頁;富樫,1995:40,348,351,468;水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編,1997:177,217;牛山編,2001:184)。また第三次第二陣熊本地裁判決(1993年3月25日)は、遅くとも1959年11月までに食品衛生法4条を適用すべきだったとしている(『判例時報』1455号42頁;水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編,1997:177)。
水俣病国家賠償訴訟で国・県の責任を認めたときの根拠法令を表1に示した。
表1 水俣病国家賠償請求訴訟の判決
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1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
判決 |
熊本水俣病第三次訴訟第一陣判決(熊本地裁1987年3月30日)相良判決 |
水俣病東京訴訟判決(東京地裁1992年2月7日) |
新潟水俣病第二次判決(新潟地裁1992年3月31日) |
熊本水俣病第三次訴訟第二陣判決(熊本地裁1993年3月25日)足立判決 |
水俣病京都訴訟判決(京都地裁1993年11月26日)小北判決 |
水俣病関西訴訟判決(大阪地裁1994年7月11日) |
水俣病関西訴訟判決(大阪高裁2001年4月27日) |
水俣病関西訴訟判決(最高裁2004年10月15日) |
食品衛生法 |
○ |
× |
- |
○ |
×(*) |
× |
× |
× |
漁業法 |
○ |
× |
- |
× |
× |
× |
× |
× |
熊本県漁業調整規則 |
○ |
× |
- |
× |
○ |
× |
○ |
○ |
水質二法 (注8) |
○ |
× |
× |
○ |
○ |
× |
○ |
○ |
緊急避難的行政行為 |
○ |
× |
- |
× |
× |
× |
× |
× |
* 1959年11月末の段階で食品衛生法の適用は認めているが、結論では棄却したもの。
1,2,4,5は熊本水俣病全国連関係、3は関連する新潟水俣病関係。
出典 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編『水俣病裁判』(かもがわ出版,1997)177頁の表に関西訴訟高裁判決、最高裁判決を加筆して日付順にした。2、6は行政の法的責任に関して原告の全面敗訴。3も原告敗訴。なお、水俣病全国連の前掲書では関西訴訟一審の「緊急避難的行政行為」を「-」としているが、判決文などから「×」であると解釈した(『判例時報』1506号82頁;同1876号6頁)。
1957年当時の熊本県公衆衛生課長守住憲明(取材当時は開業医、故人)は、4条適用が阻止された悔しさを回想している(NHK,2004b)。食品衛生法第1条は1947年の制定当時も1957年当時も「この法律は、飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、公衆衛生の向上および増進に寄与することを目的とする」であった(2005年現在の第1条はそれに少し加筆したものだが、趣旨は同じである)。何をなすべきか明らかだったはずだ。
ただし、加工食品・外食産業と生鮮食品の違いは食品衛生法運用の課題として残る。食品衛生法4条(現在の6条)は、加工食品や外食産業で有害物質や病原菌が付着した場合を想定しており、4条適用は業者の管理不備の責任を問うものである。しかし水俣病の場合は有害物質付着の責任は化学工場にあり、4条を適用される漁民には責任がなかった。そのため、4条適用に際しては漁業法の規定により、行政は漁獲禁止をした場合に漁民に補償しなければならない。それが県庁に適用を躊躇させた内部要因(外部要因は前記の厚生省の介入)であった(宇井, 1968:42;舩橋,2000:151)。前述のアサリも生鮮食品であるが、これは周辺住民による自家採取であり、漁民への補償の問題は生じなかったのであろう。
橋本道夫らは次のように述べている。「水俣病の場合、厳密な原因特定を主張する勢力があったために、魚介類という人の口に入る第一の原因が軽視された。人命に関する緊急性のあることであり、細かな化学式まで求めるのでなく、原因を魚介類として当面の対策をとる必要があった。水俣湾の魚介類の摂食が原因であることがわかった時点で、被害の深刻さに鑑み、行政は、補償問題と健康被害を天秤に掛けるのではなく、漁獲の禁止措置をとるべきであった。そして、その魚介類の有毒化の原因として工場排水が疑われた時点で、行政は工場の立入検査を実施し、有害物質の排出を停止させる措置をとる必要があった」(橋本編,2000:138)。
食品衛生法(注9)では、有害食品を食べて症状のあった人(曝露有症者)はすべて救済しなければならない。症状の組み合わせで選別してはならない(津田, 2004a:75)。「食中毒患者の認定制度」という奇異なものは、水俣病(熊本と新潟)とカネミ油症の他に例を見ない。「1万人を越える未認定食中毒患者」という異常事態はこの2つの事件の他にない(津田, 2004b)。水俣病では、救済の枠を拡大した1971年(昭和46年)の認定要件は選別、切り捨てにつながらなかったので、科学的にも法的にも妥当と思われる(科学論争はあるが、日本精神神経学会の見解が妥当と思う)。しかし、1959年(認定制度の正式な発足)から1971年の認定要件採用までと、1977年(昭和52年)判断条件採用から現在までは、食品衛生法の趣旨に反する状態が続いているのではないだろうか。
救済の失敗(昭和52年判断条件)も、原因の一部は食品衛生法の軽視である。水俣病では、食中毒の全体像をつかむための調査もなされていない(調査は食品衛生法で義務づけられている。1957年当時の第27条、2005年現在の第58条をみよ)。公的な調査がなく患者の本人申請を待つというのも、1万人を超える「未認定食中毒患者」の存在も、「検査漬け」や申請してから何年も保留で待たされるのも、食中毒事件処理としてまったく異常な事態である(日本精神神経学会・研究と人権問題委員会,2003:830;津田,2004a)。
1968年のカネミ油症でも食品衛生法は軽視され、さらに医師(九大病院)による食中毒届出さえなかった(津田,2004a:185;川名,2005:91,330)。もちろん、全体像をつかむための調査もなされていない。「症状の組み合わせによる厳しい認定基準」も水俣病と同様で、被害を届けた約14000人のうち認定患者は死亡者も含めて1885人(1割余)にすぎない。ダイオキシン類のPCDFを加えた2004年の新認定基準でも、117人の申請に対して認定は18人(15%)にすぎない(垣花・石川,2005)。
津田敏秀は水俣病判決について次のように述べているが同感である。「食品衛生法における国の責任を認めなかった大阪高裁の判決をそのまま引きずる形で食品衛生法の問題を取り上げなかった最高裁判決を見ると、『原因物質』というような食品衛生法の実務では使わない用語を誤ったまま判決文に用いており最高裁が食品衛生行政の実際や裁判資料を検討する上で著しい不備があったと考えざるを得ない。食の安全性が大きな関心となっている現代社会において、法の番人である最高裁がこのような判決を下していては、今後の食品衛生法の適用において大きな障害となるだろう」(津田,2004b)。
5.憲法
阿部が指摘したように、環境・健康の問題は憲法第13条(個人の尊重、生命、自由及び幸福追求に対する権利)をふまえて対処しなければならない(NHK,2004a)。13条の趣旨は、他人を犠牲にして自己利益をはかる利己主義と、全体のためと称して個人を犠牲にする全体主義を否定することである(辻村,2000:188)。
また、学説では、「環境権」の根拠としてあげられる憲法の条文に、第13条とあわせて、第25条(健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、公衆衛生の向上など)がある(淡路,1998:31;辻村,2000:325;杉原,2004:183)。第25条は、「生存権」の根拠としてよくあげられるものである。高度成長時代には、日本経済という「全体」のために、営利企業の「集合的利己主義」のために、個人が犠牲にされ公害が激化した。それは、「健康な生活を営む権利」の侵害であった。
食品衛生法1条(目的)と憲法25条が「公衆衛生の向上」という文言を共有していることは、1947年の法案提案理由説明でも念頭におかれているし、逐条解説の公式説明でも強調されている(厚生省生活衛生局監修,1996:9,10,538)。法の目的は「飲食に起因する衛生上の危害の発生の防止」(1条)であり、その危害はまず個人のレベルで生じる(それが集積すると、集団への危害になる)ものである。水俣病裁判原告団も、食品衛生法の上位規範が憲法13条と25条であると指摘している(『判例時報』1235号87頁;『判例時報』1455号20頁)。また下山瑛二も憲法13条、25条と食品衛生法の密接な関連を示唆している(下山,1979:157)。
さらにカネミ油症事件一審判決(福岡地裁小倉支部1978年3月10日)は、食品衛生法の意義については、次のように指摘している。
「食品衛生法は、右憲法第13条、第25条の政治的理念に基づいて制定され、飲食に起因する危害の発生を防止して、公衆衛生の向上および増進に必要な条件を確保することを目的とするものであり、食品の安全が人の生命、健康の維持、発展にとって必須の条件であるため、消費者である国民に対して安全な食品の供給を確保をすることが食品衛生法に基づく行政の極めて重要な基本的責務となっているのである。」(『判例時報』881号68頁;下山,1979:224,236)。
ただし、このカネミ油症事件判決は、「被告国に食品衛生法に基づく規制権限の不行使について全く行政上の責務懈怠(けたい)がなかったとはいい難い」(『判例時報』881号70頁)としつつも、「ダーク油事件の発生に際して、被告国の食品衛生法上の権限不行使について、被告国に著しい不合理があったとは到底いい難い」(ibid:73)、「九大医学部の医師が同条(注:食品衛生法27条)の届出義務を怠り、仮にこれによって本件事故の拡大に寄与した結果になったとしても、国家賠償法第1条の責任が問題となる余地はないのである」(ibid:72)などとして、国家賠償法1条に基づく国の賠償責任を否定したものであり、この判示には異論の余地が少なくない。
「憲法の基本的人権規定を財産権中心の把握の仕方から、生存権中心の把握の仕方に転換することを要求し、憲法13条・25条から、その一環としての『健康権』概念を導きだしてくる」(下山,1979:72)うえで、食品衛生法の適正な運用は、重要な要件のひとつであろう(阿部 2002参照)。下山は生命(生存権)を中心におき、その外側に健康(健康権)、生活(財産を含む)、環境(環境権)をおいた同心円を図示しており、有益である(下山,1979:79)。
下山の著書は四半世紀前のものであるが、21世紀に入っても、阿部泰隆が「財産権・営業の自由偏重の法システムを廃止せよ」と訴えている(阿部,2002:376)。2人のすぐれた行政法学者の発言に耳を傾けるべきであろう。なお個人の尊重とかかわりの深い財産と、法人や富豪の巨大財産は、当然区別すべきものであろう。私たちが「生存権・健康権・環境権が財産権より優先すべきだ」というときの財産権は、特に後者の巨大財産が念頭にある。
6.被害の拡大
行政の不作為によって被害はどのくらい拡大したのであろうか。チッソ附属病院の細川院長が水俣保健所に届出をしたのは1956年5月で、これがいわゆる「公式発見」である。わずか半年後の1956年11月には、熊本大学医学部公衆衛生学の喜田村正次教授らによって「水俣病の原因は、工場排水中に含まれるある種の重金属による魚介類の汚染による食中毒の疑いが強い」との報告が出された。この時点で排水を停止し、魚介類の摂取を禁止していたら、水俣病患者は約50名程度で終わっていただろうと、三重県立大学医学部公衆衛生学(当時)の吉田克己教授は後に著書『四日市公害』のなかで指摘している(吉田,2002;永嶋,2005b)。吉田は、四日市公害裁判で原告住民側に協力した医学者である。
被害拡大防止の第2の機会は、1957年7月に熊本県公衆衛生課が食品衛生法第4条適用を決意したときである。この時点で排水停止と魚介類摂取禁止を行っていれば、水俣病患者は「約50名程度」をそんなに大きくは上回らなかったのではないだろうか。
第3の機会は1958年7月の厚生省公衆衛生局長通達で、水俣工場の廃棄物によって魚介類が有毒化したと推定されると指摘されたときである(富樫, 1995:323)。1958年9月の水俣工場による排水路変更で患者発生地域は拡大する。
第4の機会は1959年7月の熊本大学医学部の「有機水銀中毒である」との報告であり、第5の機会は1959年11月の厚生省食品衛生調査会の「有機水銀中毒である」との答申であった。この答申は政策の基礎にされることなく棚上げされる(宮澤,1997:263)。この頃、水銀を触媒とするアセトアルデヒドの増産が続いている(水俣病被害者・弁護団全国連絡会議編,1997:49の図)。
そして、1968年5月に水銀を触媒とするアセトアルデヒド製造工程が日本全土からなくなったことをあたかも見届けるかのように(切り替えが早かったのは1961年1月の鉄興社酒田工場であり、最後まで残っていたのはチッソ水俣工場と電気化学工業青梅工場であった)、国は1968年9月の「政府見解」で水俣病を有機水銀中毒と認めたのである(原田, 1985:72;見田,1996:60)。
この「11年の遅れ」(1957~1968年)は、薬害エイズ事件における加熱血液製剤の認可での「2年4ヶ月の遅れ」(1983年3月~1985年7月)を連想させる。認可の遅れた2年4ヶ月のあいだに血友病患者の感染は集中している(池田,1993:101)。この場合、加熱製剤の開発で先行したのは、トラベノール、ヘキスト、化血研で、開発に遅れをとったミドリ十字の開発状況をあたかも見届けるかのように、厚生省の認可がなされたのである(池田,1993:117)。
2000年3月31日までに17128人が認定申請を行ったが、熊本県と鹿児島県が認定した患者数は2264人にすぎない(田中,2004;永嶋,2005b)。単純計算しても、「疑わしきは規制する」という「予防原則」で対応していれば、被害は約400分の1程度におさえることができたのではないだろうか。橋本道夫の次の指摘は印象的である。「民法の共同不法行為に対して、共同不作為ともいう法理が研究される必要もあるのではなかろうか。」(橋本編,2000:2)
国の公式認知(1968年)が公衆衛生学(注10)の教科書にどう反映されたかも見ておこう(表2)。水俣病については、公衆衛生学の教科書で、環境衛生ないし環境保健(水質汚染と公害病)、食品衛生(化学性食中毒)、母子保健(胎児性水俣病)、労働衛生(職業性有機水銀中毒)の項目で言及があるのが望ましいのであろう。この表を見ると、「公害病としての水俣病」は定着しているが、「化学性食中毒としての水俣病」への認識はいまひとつである。
表2 公衆衛生学の教科書における水俣病の記述の比較(戸田作成)
著者・編者 |
発行年 |
水俣病の記述 |
備考 |
古屋監修 |
1949 |
今後起り得る化学性食中毒についての項で、鉛、砒素、緑青についての言及はあるが、水銀への言及はない(407頁) |
「第5編 優生學」に73頁をさいていることが、時代背景をうかがわせる。 |
斎藤編 |
1956 |
化学性食中毒の項で無機水銀(昇汞の誤用自殺)に言及(207頁)。 |
上下巻あわせて本文812頁。下巻は1957年。 |
遠山・川城・金原・松井編 |
1957 |
化学性食中毒の項に無機水銀への言及がある(37頁) |
公衆衛生学の教科書ではなく食品衛生の参考書であるが、比較のために入れた。 |
豊川・菊池 |
1959 |
公害の項にも化学性食中毒の項にも水銀への言及はない(66,161頁) |
|
福島・藤咲・栗原 |
1960 |
食中毒の項にも公害の項にも水銀への言及はない(147,159頁) |
|
田中 |
1961 |
食中毒の項にも環境衛生の章にも水銀への言及はない(60,221頁)。 |
食品衛生の節に放射能汚染の項目あり。著者は広島大学教授。 |
安倍・高桑編 |
1967 |
環境衛生の章にも食品衛生の章の食中毒の項目にも水俣病への言及なし。労働衛生の章で水銀中毒に言及(321頁)。 |
|
辻 |
1968 |
食中毒や環境衛生の項目はない。 |
|
豊川・林・重松編 |
1969 |
食品衛生の章の化学性食中毒の項で水俣病に言及(214頁)。労働衛生の章で無機水銀中毒について記述(347頁)。 |
|
塚原 |
1973 |
「化学性食中毒」の説明のなかに「有機水銀」という言葉があり(94頁)、「環境衛生」の節の「公害」の項目で水俣病に言及(62頁)。 |
|
安倍・高桑編 |
1974 |
化学性食中毒の項に水俣病への言及はないが、公害の章に言及がある(431頁)。労働衛生の章で水銀中毒の他に「付 有機水銀中毒」(320頁)。 |
前掲の安倍・高桑編1967の全面改定版。 |
西川・井上編 |
1974 |
「食品衛生」の項目はあるが「食中毒」の項目も言及もなく、「環境衛生」の章のなかに「メチル水銀」への言及はあるが、水俣病への言及はない(107頁)。 |
|
緒方編 |
1975 |
環境衛生の章に水俣病への言及があるが(136頁)、化学性食中毒の項に水俣病への言及はない(245頁)。 |
|
中村・西川編 |
1979 |
化学性食中毒の項目のなかに水銀や水俣病への言及がなく砒素の説明だけであるが(72頁)、「環境保健学」の章の「公害、環境汚染とその対策」の節のなかに水俣病への言及がある(42頁)。 |
|
藤原・渡辺・高桑編 |
1985 |
人口問題の章の先天異常の項(93頁)に胎児性水俣病、環境衛生の章(216頁、295頁)に水俣病への言及がある。公害の章に8頁にわたる水俣病の詳細な「特論」(445~452頁)があり、認定制度や訴訟についてもまとめている。さらに食品衛生の章にも4頁にわたり食品中の水銀化合物についての「特論」(653~656頁)がある。しかし食品衛生の章の化学性食中毒の項目には水俣病への言及がない(611頁)。 |
上下巻あわせて本文1639頁の大部の本である。 |
西村・近藤・松下編 |
1990 |
環境衛生の章の公害(61頁)、水中有害物資(78頁)、母子保健(161頁)の項に水俣病への言及があり、食品衛生の章の化学性食中毒の項にも水俣病への言及がある(126頁)。母子保健の章には胎児性水俣病への言及がある(161頁)。 |
化学性食中毒の頁は巻末索引の「水俣病」に記載されていない。 |
糸川・斎藤・桜井・廣畑編 |
1990 |
母子保健の章で胎児性水俣病に言及(165頁)、公害の章で水俣病と「阿賀野川有機水銀中毒」の項目(242頁)、化学性食中毒の項目ではカネミ油症への言及はあるが水俣病への言及はない(270頁)。 |
「新潟水俣病」と言わずに「阿賀野川有機水銀中毒」という用語を使用。 |
糸川・斎藤・桜井・廣畑編 |
1995 |
母子保健の章で胎児性水俣病に言及(165頁)、公害の章で水俣病と「阿賀野川有機水銀中毒」の項目(248頁)、化学性食中毒の項目ではカネミ油症への言及はあるが水俣病への言及はない(277頁)。 |
前掲初版(1990年)と同じ記述であるが、患者数、死者数が改訂されている。 |
糸川・斎藤・桜井・廣畑編 |
1998 |
母子保健の章で胎児性水俣病に言及(167頁)、公害の章で水俣病と「阿賀野川有機水銀中毒」の項目(250頁)、化学性食中毒の項目ではカネミ油症への言及はあるが水俣病への言及はない(276頁)。 |
前掲初版(1990年)および第2版(1995年)と同じ記述であるが、患者数、死者数が改訂されている。 |
竹本・齋藤編 |
1999 |
「食生活・栄養」の節はあるが、そのなかに「食中毒」の項目がなく、水俣病への言及は「労働衛生」の節のなかにある(134頁)。 |
本文160頁で、医学部・歯学部向けではなく、看護学部・教育学部向けの教科書であるようだ。 |
佐谷戸編 |
2000 |
公害病の節に水俣病の項目があり(192頁)、化学性食中毒の説明のなかに水俣病への言及がある(223頁)。産業保健の章にアルキル水銀への言及がある(256~258頁)。 |
|
鈴木・久道編 |
2001 |
環境保健の章で公害としての水俣病への言及はあるが(58頁)、食中毒の項目(324頁)には言及がない。 |
同書の2002年版でも内容は同じ。 |
岸・古野・大前・小泉編 |
2003 |
総論(14~18頁)、環境保健の章(211,233~234,235頁)、産業保健の章(257頁)で水俣病に言及。初期の徹底した疫学調査の必要性、全体像把握の必要性、被害拡大の原因解明にふれるなど、適切な記述と思われる。ただし食中毒の項目に化学性食中毒への言及がほとんどない(306頁)。 |
公衆衛生学の教科書で表題に「予防医学」という言葉が入るのは珍しい。 |
横山監修 |
2004 |
四肢末端の感覚障害、小脳性運動失調、求心性視野狭窄、平衡機能障害、聴力障害などのHunter-Russell症候群を呈する後天性水俣病と、多様な精神・神経症状を呈する先天性(胎児性)水俣病(179頁) |
本文225頁で、医師国家試験の受験参考書の性格が強い。 |
7.おわりに
最高裁判決が食品衛生法を軽視し、したがって憲法第13条と第25条を軽視したことは、大きな禍根を残すだろう。改憲の入り口(本命は第9条)として「環境権の明記」を求める意見も、憲法第13条および25条の無理解によるものだ。
前記のように、食品衛生法の解釈をゆがめた厚生省公衆衛生局長通知の日付は、1957年9月11日であった。まったくの偶然であるが、2001年の米同時多発テロ、1973年のチリ・アジェンデ政権崩壊(ピノチェト将軍のクーデターを米CIAや米企業が支援した)と同じ日付である。私はこれらを「3つの9月11日」と呼んでいる。無差別テロ自体が重大犯罪であるが、それに加えて、米国政府が「テロ支援」や「情報操作」(ペンタゴンに激突したのは旅客機ではなさそうだという問題など)をした疑いが指摘されている(Griffin,2004)。軍事クーデター支援(その後の軍事独裁政権は市民に多くの重大な犠牲をもたらした)は重大な国家犯罪であり、企業犯罪である。そして、1957年に厚生省幹部が食品衛生法の解釈をゆがめ、それが2004年の最高裁判決によってもなお追認されていることは重大である。
戦後の第1回国会で1947年のクリスマスイヴに公布された食品衛生法がこれまでの食品安全行政の基礎であり、グローバル化に対応するために新たに食品安全基本法が2003年に制定された。BSE(いわゆる狂牛病)問題をめぐる迷走(さしあたり、福岡, 2004;山内,2004 を参照)に見られるように、食品安全行政への市民の不安は小さくない。「基礎編」である食品衛生法の運用が適切にできなければ、「応用編」である食品安全基本法を使いこなすのも難しいのではないだろうか?
(本稿は、2004年12月に公表された拙稿に大幅に加筆したものである。)
謝辞:チッソ水俣病関西訴訟を支える会の横田憲一氏をはじめ多くのみなさんの助言を感謝したい。
注1 ここでいう「解決」とは、1957年に水俣病について食品衛生法の運用で過失があり、それが後のカネミ油症などにも尾を引いたことを認めて、教訓をくみとり、今後の食品安全行政や環境行政に生かすことである。公式発見(1956年)から50年以上を経過してなお混乱が続く「水俣病問題」の解決には、最低限、①昭和52年判断条件の見直し、②1957年に食品衛生法を適用すべきであったという共通認識の確立、が不可欠である。①については、破綻した昭和52年判断条件の見直し拒否(特に環境省、与党)がいまも実害を与え続けており、②は歴史認識の問題であるとともに、カネミ油症問題などにおける食品衛生法軽視ともつながっている。
注2 水俣病に関して最高裁ではこれまでに、川本輝夫に対する傷害被告事件での1980年12月17日の上告棄却決定、待たせ賃訴訟2審判決に対する1991年4月26日の破棄差し戻しがある。両者については富樫,1995:320,388を参照。
注3 認定制度が正式に発足したのは1959年のことであるが(富樫,1995:226;橋本編,2000:100)、熊本での水俣病認定は基本的にはハンター・ラッセル症候群(感覚障害、求心性視野狭窄、難聴、運動失調)の組み合わせが基準となった(宮澤,2000:17)。ハンター・ラッセル症候群は、原因究明(有機水銀への到達)には有益であったが、原因がわかってからは広範な疫学調査によって有機水銀の健康影響の全体像が解明されるべきだったのに、それがほとんどなされなかったのである。多数の棄却が行われたために行政不服審査請求がなされ、それに応えた1971年認定要件によって救済の枠が広げられた。
1971年認定要件は、四肢末端や口周のしびれ感、言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴、運動失調、知覚障害などのうちいずれかの症状(1970年佐々報告書を念頭におく)があり、当該症状の発現または経過に関し有機水銀の影響が認められるものを水俣病とする。知覚障害だけの場合でも、有機水銀の影響が認められる限りは水俣病とする。また、有機水銀の影響であることを断定できる場合だけでなく、症状、既往歴、生活史、家族の状況などから有機水銀の影響によるものであることを否定しえない場合も、影響が認められる場合に含まれる(富樫 1995:256~260)。
1977年判断条件では、疫学的条件に加えて、次のような症候の組み合わせが認められる場合を水俣病とする。①感覚障害+運動失調、②感覚障害+運動失調(?)+平衡機能障害または求心性視野狭窄、③感覚障害+求心性視野狭窄+中枢性障害を示す他の眼科または耳鼻科の症候、④感覚障害+運動失調(?)+その他の症候(富樫 1995:260~263;日本精神神経学会・研究と人権問題委員会,1998)。1977年判断条件は、その内容上の問題点だけでなく、判断条件がその通り適用されたかどうかについても疑問が持たれている(日本精神神経学会・研究と人権問題委員会,1998;チッソ水俣病関西訴訟を支える会,2004)。
2004年最高裁判決以降、「行政と司法の二重基準」が問題となり、認定審査会の機能停止などが起こっているが、「行政の認定基準」とはもちろん1977年判断条件のことであり、「司法の認定基準」は1971年認定要件にほぼ等しいと見てよいであろう。1977年判断条件は、科学的にも、法的にも(食品衛生法との関係)、疑問があると思われる。
注4 岡嶋らの反論(岡嶋ほか,1999)と名村らの再反論(名村ほか,2000)を読み比べてみても、前者の説得力は非常に薄いと思われる。なお、岡嶋透は熊本県認定審査会の前会長であるが、二重基準が解消されないなどの理由で再任を拒否している(朝日新聞2005年3月25日)。
注5 環境行政において1970年頃から欧米や日本で注目されている「予防原則」(疑わしきは規制する)は、表3に示したように刑事司法における「推定無罪原則」(疑わしきは罰せず)と対比して理解すべきものであろう(戸田,1999)。推定無罪は、冤罪を防止する趣旨で、フランス人権宣言(1789年)第9条や、世界人権宣言(1948年)第11条に明文化された(高木ほか編,1957:132,404)。予防原則は「見逃し」(統計学でいう第2種の過誤)を防ぐことに、推定無罪原則は「早とちり」(第1種の過誤)を防ぐことに力点がある(統計学における2種類の過誤については、片平,1997:105)。
環境行政における推定無罪(すべてが有毒化していることが証明できないと規制できない、不明を安全にすり替えるなど)や、刑事司法における推定有罪(逮捕即有罪とみなす犯人視報道、自白だけで有罪など)はあってはいけない。水俣病裁判の原告らが依拠した「安全性の考え方」(武谷編,1967;富樫,1995:20)も内容は予防原則であると思われる。安全無視は「人体実験の思想」に行きつく(富樫,1995:168)。救済のためには患者の「見逃し」をしないことも重要である(富樫,1995:259,343;戸田,1999)。
阿部泰隆がNHKの番組やホームページで次のように述べているのも、予防原則のわかりやすい解説と言えよう。「チッソが本来シロであるのに規制すれば、財産上の損失が生じる。しかし、チッソが黒であるのに規制しなければ、多数の生命・健康の喪失という事態が生じる。前門の虎、後門の狼である。どっちにしても間違える可能性がある場合には、間違った場合に被害が少ない方に間違うべきである。財産よりも命が大切であるから、無毒のものを有毒と間違うのはやむをえない。有毒のものを無毒と間違ってはならないのである。チッソからの排水が有毒と証明され、有毒物質が検出されるまで規制できないとするのは、一見法治国家の原則に忠実であるが、かえって、細かい法律と技術ができるまでは放置するしかないという、『放置国家』になる」http://www2.kobe-u.ac.jp/~yasutaka/minamata.html。阿部 2002も参照。注 現在の阿部泰隆氏のウェブサイトは、http://www.ne.jp/asahi/aduma/bigdragon/
なお、1972年の食品衛生法改正で「健康に無害であることの確認のない新食品の販売の禁止処分をなしうるようになったこと」(当時の食品衛生法4条の2、現在の7条)は、下山が示唆するように予防原則を取り入れる試みであろう(下山,1979:36)。
表3 環境問題と冤罪問題の対比
|
刑事裁判 |
公害被害者の救済 |
有害物質の規制 |
早とちり(推測統計学でいう第1種の誤謬に相当) |
無実の人を有罪とみなす(冤罪)。犯人視報道など。★ |
他の原因による患者を公害病患者とみなして救済する。 |
無害な物質や環境負荷の少ない開発行為を早まって規制する。過剰規制によって企業の財産を侵害するおそれがある。 |
見逃し(推測統計学でいう第2種の誤謬に相当) |
犯人を無罪とみなして放免する。 |
公害病患者を見過ごして救済せずに放置する。★ |
有害物質や環境負荷の大きい開発行為を見過ごして規制しない。過小規制によって住民の生命・健康を侵害するおそれがある。★ |
不確実性・人間の可謬性のもとでの判断の原則 |
疑わしきは罰せず(推定無罪の原則) |
疑わしき(公害病の蓋然性あるいは可能性を否定できない)は救済する(予防原則の延長) |
疑わしきは規制する、対策をとる(予防原則) |
立証責任あるいは説明責任 |
被告人の有罪を主張する側に厳しく求められる。合理的な疑いの生じない程度に有罪を立証する責任がある。 |
申請患者が公害病でないと主張する側に厳しく求められる。公害病の診断基準を狭すぎるものとしない。対照群と比較した相対危険度を重視する、など。 |
化学物質や開発行為を必要かつ安全であると主張する側に厳しく求められる。不明を安全にすり替えてはならない。 |
この表は、戸田 1999所収のものを改変して作成した。
★ は人権の視点からみて、より重大な過誤である。たとえば、推定無罪原則の重視と冤罪刑死の発覚は欧州の死刑廃止の重要な根拠となった(団藤 2000参照)。冤罪は代表的な「早とちりの過誤」である。英国では、「1人の無実の者が処刑されるよりは10人の真犯人が免れる方がよい」という法格言がある(団藤,2000:27,183)。他方、環境先進国と言われる北欧では、予防原則が重視されている(梶山編,2001)。公害・環境問題における不確実性のもとでの判断において「疑わしい」というのは、「あやしい」「かもしれない」といった勘のレベルではなく、合理的な根拠のある場合(水俣病の診断の場合は50%程度以上の蓋然性といってもよい)である。刑事裁判で「疑わしきは罰せず」というのは、犯行などを疑うに足る理由があるが、同時に有罪についても合理的な疑いが残る場合のことである。なお水俣病の場合、感覚障害の相対危険度が100倍であれば、早とちりの過誤の可能性は1%にすぎない。煙草病の場合、癌の相対危険度が10倍であれば、早とちりの過誤の可能性は10%くらいになるだろう。しかしその10%も煙草の健康影響がないということではない。認定の枠を広げる1971年認定要件の採用にあたって大石武一環境庁長官(当時)が「1人の公害病患者も見落されることなく、全部が救済されるようにしたい」と説明したこと(富樫, 1995:259)も、「見逃しの過誤を防ぎたい」という意思表示として注目されよう。
注6 1940年代の戦中戦後に4回発生した浜名湖のアサリによる中毒について、静岡県衛生部は病因物質不明のまま食品衛生法4条を適用した(津田, 2004a:50;宮澤,2004)。他方、安倍らの本では、1942年の浜名湖のアサリ、カキによる中毒の有毒成分はvenerupinであるとしている(安倍・高桑編, 1967:225)。なお、venerupinという言葉は『ステッドマン医学大辞典』改訂第5版(メジカルビュー社,2002年)には収録されていない。
注7 裁量権収縮については、国民の生命・健康の保持のための安全性確保が憲法上第一義的価値を有することが捨象され、行政の無責任を認める(免責させる)、行政の自由と無責を前提として例外的な場合のみ責任を認めるものだ、などの批判がある。少なくとも水俣病裁判を始めとする判例において、裁量権収縮の要件が厳格なために行政の責任がなかなか認められてこなかったことは明らかであるから、「事案に応じて要件を緩和すべきである」ことだけは間違いないだろう(阿部,1988:190)。
注8 水質二法とは、1958年制定、1959年施行の「公共用水域の水質の保全に関する法律」と「工場排水等の規制に関する法律」のことである。1970年のいわゆる「公害国会」で水質汚濁防止法が制定されたことにより、水質二法は役目を終えて廃止された。
注9 食品衛生法の意義については、津田敏秀(岡山大学医学部、疫学)が水俣病を主要な事例として考察している『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田,2004a)が必読の文献であろう。
注10 「医学は基礎医学と臨床医学に大別される」と理解している人が多い。しかし、医学は、基礎医学(解剖学、生理学、薬理学、病理学など)、臨床医学(内科学、外科学、産科婦人科学、精神医学など)、社会医学(公衆衛生学、疫学、法医学、医史学など)の3つに大別されると理解すべきであろう。長崎大学医学部のホームページなどを参照。
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