『図書新聞』掲載原稿

 

●『図書新聞』2828号(2007年7月7日)5頁

「幾多の困難の果てに 文明と野蛮の複雑な関係を理解し、その問題を知るべき慣習」

キャディ・コイタ著 松本百合子訳『切除されて』2007年5月20日刊 四六判274頁 本体1400円 ヴィレッジ・ブックス発行、ソニー・マガジンズ発売

 

 この慣習は、女子割礼(FC;female circumcision)あるいは女性性器切除(FGM;female genital mutilation)と呼ばれる。伝統文化としての側面に力点があるときはFC、女性の心身への弊害に力点があるときはFGMと呼ばれる。厄介なのは、文化的帝国主義と無縁でないことで、FGMという用語には女性の人権への関心を喚起するという面と、「アフリカ人は野蛮だ」という欧米人の言説に荷担しかねない面の両義性があるということだ。文明と野蛮の関係は複雑である。欧米や日本による植民地支配(あるいはいまも続く新植民地的支配)や戦争(核・化学・生物兵器や劣化ウラン兵器、クラスター爆弾、通常兵器の大量使用などを想起されたい)を通じて、「文明の野蛮性」が高まったことは銘記しておきたい。後述の内海夏子によると、国連の公式文書では、「FGM/FC」と併記されることが多いそうだ。

 FC/FGMはアフリカ諸国を中心に約三〇カ国に見られるが、イスラム教と関係があるという誤解はいまも根強いようだ。イスラム教よりずっと古くからある習慣で、イスラム教でもする集団としない集団があり、キリスト教でもする集団としない集団がある。北アフリカのアラブ諸国でいうと、エジプトでは行われるが、リビアやアルジェリアでは行われない。キャディ・コイタの出身国セネガルでは、ソニンケ人は行うが、ウォロフ人は行わない。ウォロフ人が欧米人の言説を借用して、冗談混じりにソニンケ人を「野蛮人」呼ばわりすることもあるという。なお、一九世紀の英国では、一部の産婦人科医が「治療」と称してクリトリス切除を行っていた。

 私がこの慣習の存在を知ったのは、大学卒業時点(七九年三月)のことである。同年二月にスーダンのハルツームでこの問題についての国際会議が開かれた。それを取材したクレール・ブリセ(邦訳に『子どもを貪り食う世界』堀田一陽訳、社会評論社、九八年、がある女性ジャーナリスト)の記事が『ル・モンド』に発表され、その邦訳が「WHOの会議で明るみに出た三千万アフリカ女性の『性の悲劇』」(間庭恭人訳)と題して『週刊朝日』七九年三月三〇日号に掲載されたのである。そのとき以来私は関心を持ち続けており、非常勤講師として行っている看護学校の講義では、アリス・ウォーカーが製作した『戦士の刻印』(日本語字幕監修はヤンソン柳沢由実子)という映像を毎年見せている。最近では、ジェシカ・ウィリアムズ(BBC記者)の好著『世界を見る目が変わる50の事実』(酒井泰介訳、草思社、原著は〇四年)にも、「毎年、二〇〇万人の女性が性器切除される」という項目で紹介されている。同じ〇四年には、ウスマン・センベーヌ監督(二三年生まれのセネガル人男性)の映画『母たちの村』も制作された(日本公開は〇六年)。ユニセフの『国々の前進』九七年版にもこれについての特集がある。日本のジャーナリストによるまとまった解説としては内海夏子の『ドキュメント女子割礼』(集英社新書、〇三年)がとてもわかりやすいので、本書『切除されて』との併読をすすめたい。また、イスラム教徒女性がFGM/FCを含む人権問題を描いた著作としては、やはりナワル・エル・サーダウィ(エジプトの医師)の『イヴの隠れた顔』村上真弓訳(未来社、新装版は九四年)が古典であろう。

 さて、ようやく本題である。『切除されて』の著者キャディ・コイタは、五九年生まれのセネガル人女性(ソニンケ人でイスラム教徒)。その半生を、本人がマリー・テレーズ・キュニという人の協力を得て描き、〇五年にフランスで出版されベストセラーになった本の邦訳である。原題は、mutilateに対応する仏語mutilerの過去分詞なので、邦題はその直訳だ。キャディは、七歳で両肩をおさえつけられ、脚を大きく広げられてクリトリスを切除された。さらに切除部分が大きく縫合までされるタイプに比べると、「穏やかな」FC/FGMである(擁護論者には、穏やかなタイプなら良いとか、医師が清潔に施術すれば良い、などの詭弁がある)。一三歳で家族の都合により、二〇歳近く年長の見知らぬ男と結婚させられる。一五歳で渡ったフランスでの結婚生活。遠縁の親戚でもある夫は悪人ではないのだが、無知で傲慢でわがままな男である。切除の後遺症で痛いので、夫婦生活はまるで夫婦間レイプみたいなものだった。もちろん分娩も苦痛である。フランスのセネガル人移民社会の男たちも因習にとらわれている。一夫多妻生活の実情も描かれる。キャディは四人の娘と一人の息子の母となるが、上の娘三人も切除されてしまい、さらに次女の交通事故死という悲劇に見舞われる。パリで開業する有能なアフリカ人弁護士(男性)の支援を得て離婚し、現在は四人の子供たちとともにベルギー在住。

邦訳をきっかけに来日し、朝日新聞「ひと」欄(〇七年六月五日)にも紹介された。いまは、FGM/FCの廃絶運動をはじめとする女性の人権活動家である。「La Palabre」(フランス語で「長談義」という意味)のヨーロッパ代表をつとめている。「この団体は、不平等、暴力、人種差別、そして女子性器切除や早すぎる結婚、強制結婚など女性の健康を害する忌まわしい慣習に反対し、暴力を使わない形で闘い、女性と子どもたちの基本的な権利を守り、教育していくことを目的として作られました。」とのことである。本のカバーの宣伝文句は誇張があることも少なくないが、本書のカバーの「幾多の困難の果てに立ち上がったひとりの女性が自らの半生を語った。だれも、女性の生きる自由とよろこびを奪うことなどできない。」という言葉には、まったく同感である。多くの人に一読をすすめたい。

(戸田清、長崎大学教授、環境社会学・平和学専攻)

 

●『図書新聞』2841号(20071013日)5頁

「新自由主義と軍国主義の暴走に立ち向かうために」

ヴァンダナ・シヴァ著 山本規雄訳『アース・デモクラシー 地球と生命の多様性に根ざした民主主義』2007年7月30日刊 四六判357頁 本体3000円 明石書店

 

 本書はインドの科学者、思想家、市民運動の活動家として有名なヴァンダナ・シヴァの八冊目の邦訳であり、表紙の言葉にもあるように「シヴァ思想の集大成にして入門書」である。「アース・デモクラシー」と聞けば、日本人の著作としては坂本義和・大串和雄編『地球民主主義の条件 下からの民主化をめざして』(同文舘出版、九一年)や武者小路公秀ほか編『国連の再生と地球民主主義』(柏書房、九五年)が想起される。基本的な方向性はあまり変わらないと思うが、エコロジーの視点と第三世界の視点からそれらを充実させたものとみてもよいであろう。

シヴァのいうデモクラシーは人間の世界に限定されたものではなく、アニマルライツや自然の権利も包含する(人類のオーバープレゼンスとりわけ過剰消費をおさえようとする)ものであるが、欧米のディープエコロジー(人間と自然の関係に心を奪われて、人類内部の矛盾が往々にして軽視される)と違うのは、「グローバル資本主義」を「構造的暴力」としてとらえる視点が明確で具体的なことであろう。「ある一つの事業計画では、ベクテル社、ゼネラル・エレクトリック社、エンロン社は事業を完成させることができなかったにもかかわらず、価格が高すぎて売れなかったエネルギーに対する支払いとして、一二億ドルを要求しています。しかもその上、これらの企業はエネルギーを供給することができようができなかろうが、二〇年間は支払いを保証されています。どんな私有化・民営化の契約でも、こうした保証事項がつきものです。それを企業は自由市場と呼んでいるのです。」(八七頁)「ブッシュの米国」や「小泉・安倍の日本」に象徴される新自由主義と軍国主義の暴走に立ち向かうために、本書は必読文献と言えよう。

「生命中心の経済は、非暴力の経済であり、共感の経済です。市場経済が暴力と貪欲に基づいているのとは大違いです。」(一五四頁)「企業グローバリゼーションは、農民に対する戦争を、女性に対する戦争を、他の生物種に対する戦争を、そして他の文化に対する戦争を解き放ちました。」(一九九頁)市場原理主義がもたらす格差社会が、宗教的原理主義やテロリズムの土壌にもなることが指摘される。「自滅的な市場経済は、持続可能性のない不公平な成長をもたらす一方で、生態環境の危機と経済の危機を招き、自然の経済と民衆の生命の持続のための経済を破壊します」(一一九頁)。「グローバリゼーションが企業の推進する企業支配のための路線だとすれば、ローカリゼーションはそれに対抗して、環境や生命の存続、生業を保護するための民衆の路線なのです。」(一六一頁)シヴァが言うのはもちろん、ローカルにとじこもれということではない。企業主導の経済グローバル化、「帝国」による戦争のグローバル化は、むしろ人権のグローバル化(世界人権宣言や国際人権規約の実現)に背を向けている。このことは、上村英明も指摘していたと思う。

 シヴァはトルストイやガンジーの非暴力の思想を受け継いでおり、ハーディンと対比させてクロポトキンを引用している部分からは、アナーキズムとの親和性も感じ取れる。

 本書のなかで最も迫力のある文章は「WTOは農民を殺す」という節(十五頁もある)であろうか。「(農民の)自殺の割合が最も高いのは、アーンドラ・プラデーシュ州とパンジャーブ州です。どちらの州も、換金作物への依存度が最も高く、モンサント社製の種子が最も浸透していて、つまりは農業の工業化の度が最も高いのです」(二二六頁)。WTO体制のもとで先進国の農産物輸出補助金は実質的に増額され、第三世界へのダンピング輸出が小規模農民を追い詰めていく。〇四年だけで一万六千人のインドの農民が自殺しており、「WTOの政策は、小規模農民に対するジェノサイドなのです。」(二二一頁)シヴァは長年にわたって緑の革命や遺伝子組み換え作物に対する批判的検証を続けてきたが、増える人口を養うためには農業の工業化(農薬、化学肥料、品種の画一化など)が必要だという神話への反論も説得的である。資源生産性やエネルギー生産性からみて非効率なのは工業的農業のほうである。資源生産性が六六分の一に低下するという試算もあり(一九一頁)、むしろ飢餓をもたらすのだ。農薬を多用すると害虫の被害はむしろ増大する(一八七頁)。

「女子堕胎-絶滅しつつある女性」という節も衝撃的である。出生前診断による女子胎児中絶(先進国の障害胎児中絶問題を想起されたい)は最も根本的な女性差別のひとつで、拙著『環境的公正を求めて』(新曜社、九四年)でもふれているが、いまも進行中の問題である。九一年から〇一年までに生まれることを阻止された(選択的に堕胎された)女子は世界で六千万人、その半分以上をインドが占めているという(二三九頁)。

 「世界銀行の新しい総裁に指名された人物が、イラク戦争とアメリカ新世紀プロジェクトの立役者ポール・ウォルフォウィッツだったことで、経済の戦争と帝国主義の戦争が共通の日程で進行していることが、いっそう明らかになりました。」(三二六頁)もちろんその通りなのだが、彼が〇七年四月に浮上したスキャンダルで六月に辞任、後任にロバート・ゼーリックが就任したこと(たぶんゼーリックの選出は本書の校正段階で間に合わなかったと思うが)は訳注として付記すべきだったと思う。

 改憲論争の時代なので最後にふれておくが、シヴァの思想は生存権(日本国憲法13条と25条)および平和的生存権(同前文と9条)の理念をグローバルでエコロジー的な視点から充実させたものであり、二一世紀の世界における平和憲法の普遍的意義を再確認している。本書はデモクラシーの再定義に向けた希望の書である。

(戸田清  長崎大学教授/環境社会学・平和学専攻)

 

●『図書新聞』2872号(2008年6月7日)5頁

「シンガーの全体像をわかりやすく示す 「最も影響力のある哲学者のひとり」には違いない」

山内友三郎・浅井篤編『シンガーの実践倫理を読み解く 地球時代の生き方』2008年2月29日刊 四六判249頁 本体2300円 昭和堂       戸田清

編者は序章で、ピーター・シンガーは現代世界の「最も影響力のある哲学者」として実践倫理を大成したのであり、扱った分野は、執筆順から言うと、①世界的飢餓の問題、②動物の悲惨な状況の改善、③医療技術の進歩から生じた人間の生死に関する問題、④グローバリゼーションの倫理、⑤人類の生存に関わる地球環境危機の意識から始まった環境問題、があると説明する。本書は、生命倫理、動物解放、飢餓救済、グローバル倫理、環境という順で、シンガーの実践倫理(編者)、シンガーの自発的安楽死擁護論(浅井)、誕生における生と死の選択(村上弥生)、「動物の解放」論とは何か 論理と心情をめぐる考察(井上有一)、動物の解放と菜食主義 市民運動の立場から(岩沢直樹)、飢餓救済の倫理(鶴田尚美)、シンガーのグローバルな倫理 「一つの世界」を生きる(神島裕子)、シンガーの公利主義 基本的特徴と構造(樫則章)、環境 シンガーと日本人倫理の可能性(山内)という章立てである。従来の訳語は「功利主義」であるが、最近「公利主義」という表現が有力になってきたことは、本書で初めて知った。「最も影響力のある哲学者」であるかどうかはともかくとして、「最も影響力のある哲学者のひとり」には違いないので、シンガーの全体像をわかりやすく示した本書は必読であろう。

 シンガーの生命倫理は論理的にすっきりしているというか、すっきりし過ぎているかもしれない。消極的安楽死(治療断念)と積極的安楽死(薬物注射)に倫理的な違いはないし、妊娠中絶と新生児安楽死にも倫理的な違いはない、有感覚性(苦痛感受性)や人格性が同等であれば、ヒトと大型類人猿は同等に扱うべきだ(種差別の否定)などの命題で論理を一貫させる。私にとっては、シンガーとクースの『その赤ん坊は生きるべきか?』(一九八五年、邦訳なし)の印象があまりにも強烈であった。ダウン症の新生児が消化管奇形を合併していれば、親や医師の判断で安楽死させてよい、という主張から、ドイツ語圏や日本で「障害者差別だ」「優生思想だ」という批判を浴びた(シンガー「ドイツで沈黙させられたことについて」は、市野川容孝・加藤秀一訳『みすず』一九九二年五月号、六月号、また『実践の倫理 新版』にも収録)。シンガーの生命倫理に対する私の違和感は、本書を読んでもやはり解消されなかった。

シンガーの動物解放論についての井上氏の考察はよく整理されていてわかりやすい。なお、岩沢氏によると、ベジタリアンの人口は、インド六〇%、英国九%、台湾六〜九%、ドイツ八%、米国二・五%とのことで、同氏は「肉食を是認するキリスト教の下で、昔から肉食を続けてきた欧米に大勢のベジタリアンがいる。他方、あらゆる生きものに対する慈悲を説く仏教の下で、六七五年に天武天皇が肉食禁止令を出してから、一八六八年の明治維新まで、一二〇〇年にわたって肉食忌避がおこなわれてきた日本は、現在、シーフードベジタリアンでさえゼロに近い。」と慨嘆している。シンガーらの邦訳に『大型類人猿の権利宣言』があるが、大型類人猿を使う動物実験を禁止する画期的な法律が、九九年にニュージーランドで、〇三年にスウェーデンで制定されたという(ちなみに近年の分類学では、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、オランウータンはいずれも「ヒト科」である)。動物問題については、パターソンの『永遠の絶滅収容所』(拙訳、緑風出版、〇七年)も参照していただけるとありがたい。

飢餓問題や戦争をはじめとするグローバル倫理については、シンガーの『グローバリゼーションの倫理学』、『「正義」の倫理 ジョージ・W・ブッシュの善と悪』の他に、『思想』二〇〇七年一月号(岩波書店、特集・国際社会における正義)も参照すると有益だろう。シンガーは、第三世界の貧困層を支援するために、先進国の中産階級以上は年収の一〇%を寄付すべきだと主張する。シンガー自身は年収の二五%を寄付しているという(彼は三一歳で教授になった秀才で、印税も多い)。そう言えば、トマス・ポッゲの『世界の貧困と人権』(〇二年、邦訳なし、シンガーも推薦文を寄せている)の印税は全額「オックスファム英国」(援助団体)にいくそうだ。援助の道徳的義務があるというシンガーの主張は当然だが、さらに一歩すすめてポッゲのような<貧困はグローバル・エリートによる特定の人々への「加害」の帰結であり、他者に「危害」を加えてはならないという「消極的義務」の未達成であるため、グローバル・エリートには「賠償」を通じて被害者を本来あるはずの状態に戻す責任がある>という主張(前掲『思想』所収のポッゲ論文につけた神島裕子の解題)のほうが私には納得がいく。先進国支配層の賠償責任(発展途上国の支配層も共犯関係にあるが)は、欧米代表を憤激させた〇一年ダーバン会議での南側の主張でもあった(『脱暴力へのマトリックス』大越愛子・井桁碧編、青弓社、〇七年、参照)。『マルクス』やブッシュ政権批判の著書があるシンガーであるが、帝国主義や構造的暴力(ガルトゥングの概念)の問題は避けて通っているようだ。

シンガーの動物解放論は人間中心主義を、類人猿を筆頭に脊椎動物全体などに拡張する「有感覚動物中心主義(有情中心主義)」であり、植物などは人間や動物にとっての手段的価値に還元されてしまうところが確かにある。山内氏は終章で、工場畜産を廃止し人類が菜食をすれば、食糧問題と飢餓問題は解決され環境劣化も防ぐことはできるが、それだけでは地球を救うことはできないと述べ、有情中心主義と自然の内在的価値論(ディープエコロジーや仏教思想)を統合する方向で考察しており、大変示唆的である。

(戸田清  長崎大学環境科学部教授)

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